信じて踏み出す

「モーセはしゅうとのイテロのもとに帰り、彼に言った。『どうか私をエジプトにいる親類のもとに帰らせ、彼らがまだ生きながらえているかどうか見させてください。』イテロはモーセに『安心して行きなさい。』と答えた。」(出エジプト記4章18節)荒野で羊の世話をしているときに神と出会い、そして神からエジプトに戻りイスラエルの民を連れ出すように命じられ、ためらうことなくその通りにしますと答えたモーセは、家に帰るとそのことを義父であるイテロに伝えた。立場を考えれば、そう簡単に「エジプトに帰ります」と言って「では、行ってらっしゃい」と言われるような状況ではなかったかもしれない。たしかにモーセはイテロの娘たちを助けたし、その一人と結婚をしたが、今や羊の群れを任されるほどに欠かせない存在であったろう。もしかしたら、イテロの思いからすれば、エジプトから逃げ出して行く場をなくし、荒野をさまよっているところを助けてやったのに、という気持ちもあったかもしれない。もちろん聖書にはそこまで書かれていないから、私の勝手な憶測でしかないが。

しかしイテロはモーセがエジプトへ戻ることを許した。いや、ただ認めたというのではなく「安心して行きなさい」と励ましの言葉まで添えて送り出している。なぜなのか。これも聖書には書かれていないから、やはり私の想像になってしまうが、モーセのところに現れた神は、必要であればイテロのところにもやってきたのではないかと。さすがにイスラエルの民ではない彼のところに、モーセに対して現れたのと同じ方法でやってきたとは思わない。もっと地味で静かな、それこそイテロ自身も気付かないような現れ方だったかもしれない。彼の五感に訴えるのではなく、そっと彼の心に触れ、モーセの望むままにさせようという思いを心に置いたとしても、あり得ないことではないだろう。

神は出立の準備をしていたであろうモーセにこう言われた。「あなたのいのちを求めていた者は、みな死んだ。」(同19節)神から旅の安全を約束されたも同然である。もはや何者も彼を殺そうと付け狙っていないと、神が言っているのだから、これ以上確かなものはないに違いない。

こうしてモーセのエジプトへの旅は、すべてが備えられた状態で始まるのである。彼を疑うであろうイスラエルの民に対してどのように接するのか、彼を殺そうとしていたエジプトの王たちがどうなったのか、後に残すことになるイテロがどう思うか、これからのモーセが進んで行く道の妨げになるかもしれない障壁は取り除かれたのである。モーセは、妻と息子たちを連れて、神に「これでしるしを行なわなければならない」(同17節)と言われた杖を手にして、エジプトに向かった。

そしてこれもまた神がそうすると仰られた通りに、モーセは兄のアロンと出会った。もちろん偶然ではない。「主はアロンに仰せられた。『荒野に行って、モーセに会え。』彼は行って、神の山でモーセに会い、口づけした。」(同27節)アロンが自らの意思でモーセに会おうと、出掛けて行ったわけでもない。アロン自身も神のことばに従って、モーセに会いにやってきたのだ。

その後のことは聖書にこのように記録されている。まず「モーセは自分を遣わすときに主が語られたことばのすべてと、命じられたしるしのすべてを、アロンに告げた。」(同28節)なぜなら神はモーセに「あなたが彼に語り、その口にことばを置くなら」(同15節)と言われたからだ。彼は神の言われたことを守ったのだ。

「それからモーセとアロンは行って、イスラエル人の長老たちをみな集めた。アロンは、主がモーセに告げられたことばをみな告げ、民の目の前でしるしを行なった」(同29~30節)これもまた神が前もってモーセに「彼があなたに代わって民に語る」(同16節)と言われた通りのことである。

ここまでモーセとアロンは何か特別なことをしただろうか。彼らはただ神の仰ることばに従ってきただけではないか。もちろん、それは言うほどに簡単なことではなかったかもしれない。彼らに不安が全くなかったかどうか、それは分からない。しかしそうであったとしても、神が二人のためにすべて備えていたのである。彼らが信じて踏み出したから、彼らは神の備えた道を歩むことができたのだ。そうした二人の神に対する信頼と、神に従った行いのゆえに「民は信じた。彼らは、主がイスラエル人を顧み、その苦しみをご覧になったことを聞いて、ひざまずいて礼拝した。」(同31節)