れんがよりかたい心

「あの者たちの労役を重くし、その仕事をさせなければならない。偽りのことばにかかわりを持たせてはいけない。」(出エジプト記5章9節)エジプト王パロが出した結論は、これであった。モーセたちの訴えにはまったく耳を貸さなかった。それどころか、彼らの言う言葉を虚言だと決めつけていた。もし彼らの言うことが嘘であるなら、彼らにそのような言葉を与えた、神の仰られたことそのものが偽りであると言っているようなものだろう。つまり神のことを、嘘つき呼ばわりしているも同然だ。イスラエルの神など知らぬと言い放つほどに驕り高ぶったパロのことだから、そのように考えていたとしてもおかしくはない。

イスラエル人にあれこれと考える余裕を与えてはならないと考えたのか、これまで以上の労働を彼らに課すことにしたパロは、エジプト人の現場監督たちに言い含めて現場に向かわせた。彼らはこのようにイスラエル人に伝えた。「パロはこう言われる。『私はおまえたちにわらを与えない。おまえたちは自分でどこへでも行ってわらを見つけて、取って来い。おまえたちの労役は少しも減らさないから。』」(同10~11節)単純に考えれば仕事が倍になったようなものだ。今まではれんがを作る――もちろんそれも大変な労働ではあったに違いない――だけで済んだが、今度はれんがの材料も自分たちで調達しろというのである。その代わりに、生産量は半分に減らしても構わないと言われたら、それなら仕方がない、となったかもしれないが、現実はもっと残酷なものであった。

監督たちはイスラエルの民を追い立てるように、こう言った。「わらがあったときと同じように、おまえたちの仕事、おまえたちのその日その日の仕事を仕上げよ。」(同13節)それまでと同じ時間の中で倍も働かなければいけないということになる。どう考えても無理な話にしか思えない。寝る時間を削るでもしなければ、実現不可能なことだったに違いない。しかし体を休めるための時間を犠牲にして働いたとしても、長続きするわけがない。今までの私の経験から言うと、せいぜい続けて二日が限界である。もし若くて体力があれば、もう少し長く続けることができたかもしれないが、それでも限界はあるだろう。

どう頑張っても追いつかない。それが現実だった。遅々として作業が進まない様子を見て、エジプト人の監督はイスラエル人のまとめ役を捕まえて、どやしつけて言った。「なぜおまえたちは定められたれんがの分を、きのうもきょうも、これまでのように仕上げないのか。」(同14節)無理なものは無理である。パロもこの様子を見て、冷笑しながら思ったかもしれない。「お前たちには、お前たちの神にいけにえを捧げに行くだけの余裕などないだろう。お前たちの神とは一体何者なのか。エジプト王である私が許さねば、礼拝されることない神とは。」

イスラエル人の主だった者たちはパロに窮状を訴えるが、もとより心を固くしている彼には、彼らの思いは通じなかったばかりか、かえって不興を買い罵られてしまった。「おまえたちはなまけ者だ。なまけ者なのだ。……さあ、すぐに行って働け。」(同17~18節)失意のうちに出てきた彼らを迎えたのは、モーセとアロンであった。この二人なら何とかすることができるのではないか、と彼らは思っただろうか。否、彼らの恨みはパロにではなく、この二人に向けられた。「主があなたがたを見て、さばかれますように。あなたがたはパロやその家臣たちに私たちを憎ませ、私たちを殺すために彼らの手に剣を渡したのです。」(同21節)彼らはこう思ったに違いない。「モーセたちが『イスラエルの神にいけにえを捧げさせて欲しい』とパロに言ったから、こうなったんじゃないか。あいつらが黙ってさえいれば、こんな目に遭わずに済んだのに。」こうして彼らは神の約束から目を逸らし心を固くし、彼らは元の生活を懐かしむようになった。

モーセの思い描いていた通りにならないばかりか、同胞からは罵られて、彼自身も心を固くしそうになったかもしれない。しかしモーセは神を頼ることを忘れなかった。もしかしたら、彼も神に失望を感じていたかもしれない。だが神に背を向けることはしなかった。モーセは神に訴えた。「主よ。なぜあなたはこの民に害をお与えになるのですか。何のために、私を遣わされたのですか。……あなたは、あなたの民を少しも救い出そうとはなさいません。」(同22~23節)

ときに神に失望するのは人としては仕方ないことなのかもしれない。しかしそのような時でも心を固くして、神を締め出してはならないだろう。神はすべてを用いて益として下さるということを忘れてはならない。