神の名は

「わたしがパロにしようとしていることは、今にあなたにわかる。すなわち強い手で、彼は彼らを出て行かせる。強い手で、彼はその国から彼らを追い出してしまう。」(出エジプト記6章1節)イスラエルの民がエジプト王の命令によって、これまで以上の労働を課せられたとき、人々の不満はモーセとアロンに向けられてしまった。彼らの文句を聞かされたモーセは、なぜ彼らをエジプト人の手から救い出されないのかと神に訴えたのだが、その答えとして神はこのように仰られた。確かに言えることは、神はイスラエルの民を忘れてはいなかったと言うことだ。ただモーセにしてもアロンにしてと、またイスラエルの人々にしても、まだそれがどのようなもので、どのようにしてその日がやってくるのか、まだ分からないと言うことだった。

神の手段が、まだ人には分からないと言うことだけで、なにも神がイスラエルの民を忘れてしまったと言うわけでもなければ、神の代弁者であるモーセ達を責めたことで、彼らに対して腹を立てたというわけでもなかった。神には神のみが知りうる計画があり、それに従ってエジプト王を動かし、人々をエジプトから連れ出すと言っている。もちろんモーセにもはっきりとしたことを知る由はなく、ただ神の言うことを信じることしか彼にはできなかった。もとより彼にはそうする以外の選択肢もなかったに違いない。進むにも行く場所はなかったであろうし、戻るにも帰る場所はなかっただろう。いや、もしかしたらかつてそうしたように、ミデヤンの地まで逃げ帰ることもできたかもしれない。しかしそれを神が知ったらどうなるか、それはそれで不安だったろう。

神はモーセにこのように仰られた。「わたしは主である。わたしは、アブラハム、イサク、ヤコブに、全能の神として現われたが、主という名では、わたしを彼らに知らせなかった。」(同2~3節)それまでは神はどのような名前で人の前に現れていたのだろうか。神は「全能の神」(創世記17章1節)という名で自らを表していた。そしてモーセの時代からは「わたしはある。」(出エジプト記3章14節)という名で自らを表すようになった。もちろん神の名前が変わったわけではない。どちらも神の名前であり、神の性質を表すものでもある。

ところで日本には「八百万の神々」と言われるように、昔から多くの神々が存在してきたし、今でも存在し続けている。とは言っても、日本人にとっての神とは、人の理解を超えた何かなのである。もっぱら最近は神の敷居も低くなったようで、何かしら優れたものを「神」と形容していることが多いようだ。「あの人はまるで神様みたいだ」と言っている人たちがいるかと思えば、「神動画」とか「神対応」とかいう言葉を耳にすることも多い。どうやら多くの日本人にとっての神とは、どちらかと言えば概念的なもののようだ。たとえば神社に行くと、木にしめ縄が張ってあるのを見かけることがある。いわゆる神木というものだ。森羅万象に神々を見出そうとする、日本の神に対する考えは多神教というよりはアニミズムに近いように思われる。

キリスト者の私が言うのもおかしなことかもしれないが、日本人のこのような心の持ち方、物事への考え方というのは、あながち間違ったものではないのではないか。もし人が樹齢千年を超える杉の木を見たときに、そこに神が宿ると考えるのであれば、人が神木とする、その木をそこに生じさせた創造主なる神がおられるということに、もう少しで気付くのではないか。もし人々が森羅万象に神々を見出そうとするのであれば、それらすべての事象の背後には、あらゆるものをこの世界に生じさせた誰かがいるということに気付くのではないか。私の希望的観測に過ぎないかもしれないが、単なる人の手による偶像を神として拝んでいるよりは、まことの神に出会う機会は多いのではないだろうか。

さて話が逸れてしまったので、神がモーセに告げたことに話を戻そう。天と地と、そこにある様々なものを創られた神は、御自身のことを「全能の神」「わたしはある。」と呼んでいる。

「全能の神」とは、すなわちこの世界のすべてのものを超越した力を持っている神ということになる。これは神の性質の中としては明白で分かりやすい。

「わたしはある。」神は唯一無二の存在である、というだけではない。神は他の何ものにも頼ることなく存在しているということになる。このお方は神である、と誰かが言ったから神になるわけでもなければ、誰かが礼拝しているから神になった、というわけでもない。神は創造主であるから、この世界が存在する前から独立して存在していたのである。理解できない?それはそうだ。私たちは創られた側なのだから。知る必要もないし、もし仮に教えられたとしても把握できる自信はない。

それほどの神が、イスラエルの民を救い出すというのであれば、モーセは信じるしかなかったに違いない。そして同じ神は、今のこの世界でも同じように働かれているのだ。