神の契約

「わたしは、カナンの地、すなわち彼らがとどまった在住の地を彼らに与えるという契約を彼らに立てた。今わたしは、エジプトが奴隷としているイスラエル人の嘆きを聞いて、わたしの契約を思い起こした。」(出エジプト記6章4~5節)一度はイスラエルの民に受け入れられたものの、今は彼らからの信頼を失ってしまったモーセは、また同時に神のなさることに疑問を抱いてた。おそらくモーセは進退窮まって途方に暮れていたであろう。彼に味方するものはイスラエルの民にはいなかったであろうし、当然ながらエジプトの民のうちには皆無だったに違いない。わずかに彼の妻と子供たち、そして兄のアロンがそばにいたくらいであろう。しかしこのような状況では、彼らもモーセにとっては慰めでしかなかっただろう。誰一人として現実的な解決策を示すことはできなかった。追い込まれたモーセは神を頼るしかなかった。そのような彼に神は前述のように仰った。

神は昔、モーセが生まれるはるか前に、アブラハムとこのような契約を交わした。「わたしはあなたの子孫に、この地を与える。エジプトの川から、あの大川、ユーフラテス川まで。」(創世記15章18節)またアブラハムの子イサクにはこう言っている。「それはわたしが、これらの国々をすべて、あなたとあなたの子孫に与えるからだ。こうしてわたしは、あなたの父アブラハムに誓った誓いを果たすのだ。」(同26章3節)そしてさらにその子のヤコブには夢の中に現れて、こう伝えている。「わたしはあなたの父アブラハムの神、イサクの神、主である。わたしはあなたが横たわっているこの地を、あなたとあなたの子孫とに与える。」(同28章13節)三世代に渡って、神はアブラハムの家とこのような約束をしている。これは神の確たる意思のあらわれであろう。それはアブラハムの家にとって大事なことであるとともに、神にとっても重要な意味を持っていたのかもしれない。

そして今また、エジプトの地で奴隷として苦役を課せられているイスラエルの民の嘆きを聞いて、神はその契約を思い起こした。それにしても、なぜこの時になって、神はアブラハムと交わした契約を思い出したのか。まさか神が契約を忘れていたというわけではないだろう。全能の神なのだから、うっかり忘れてた、という可能性はない。だとすれば、神は何らかの理由で契約を実行する時期を待っていたと考えられよう。そして、今こそがその時であると。

さて神の理由が何であるかは、まだ分からない。モーセとイスラエルの民のエジプトからの解放の物語を読めば、もしかしたら見えてくるかもしれないから、後でまた考えてみるとしよう。今確かなことは、イスラエルの民の叫びが神に届き、神が動き出したということだ。

そして神は続けてこのように言っている。「それゆえ、イスラエル人に言え。わたしは主である。わたしはあなたがたをエジプトの苦役の下から連れ出し、労役から救い出す。伸ばした腕と大いなるさばきとによってあなたがたを贖う。」(出エジプト記6章6節)

おそらくイスラエルの民がすぐにも聞きたかったことは、彼らの父祖と神の間にどのような会話があったかではなく、今の自分たちがどうなるか、ということであったろう。彼らをわがままであると責めることはできない。誰しも追い詰められたら、自分を守ることを真っ先に考えるに違いない。そのような彼らにこう伝えよと神は言う。「苦役の下から連れ出し、労役から救い出す」と。「あなたがたを贖う」と。考えてもみれば、神が約束した土地に行くにしても、まずは今囚われているところから出て行かなければならない。神のこのことばは、ただの一時の慰めではなく、これからイスラエルの民が進むべき道へ踏み出すための、きっかけだったのかもしれない。

ところで神がイスラエルの民を連れて行こうとしているのは、果たしてどのような場所なのか。神はこう言っている。そこは「広い良い地、乳と蜜の流れる地」(出エジプト記3章8節)であると。だが神がアブラハムに約束してから、モーセの時代に至るまで数世代の年月が経っていた。永遠に生きておられる神にとっては、それはわずかな間だったかもしれないが、何人ものイスラエルの民は、その土地を見ることもなく一生を終えていたに違いない。この地上で有限の命しか与えられていない人間にとっては、それは果てしなく思えたことだろう。いつ終わるとも知れない苦役にあったエジプトの地にあったイスラエルの民にとっては、なおさらであったと想像するのは容易だ。しかし神が人を約束の地へ連れ出すと仰るのであれば、どれだけ時間が掛かろうとも、それは必ず実現されるのだ。契約を守る神に、期待をしていこう。様々な方法で語り掛けて下さる神に、耳を傾けていこう。