わたしの民、あなたがたの神

「わたしはあなたがたを取ってわたしの民とし、わたしはあなたがたの神となる。あなたがたは、わたしがあなたがたの神、主であり、あなたがたをエジプトの苦役の下から連れ出す者であることを知るようになる。わたしは、アブラハム、イサク、ヤコブに与えると誓ったその地に、あなたがたを連れて行き、それをあなたがたの所有として与える。わたしは主である。」(出エジプト記6章7~8節)神の言いつけに従い、イスラエルの人々をエジプト人の手から救い出し、約束の地へと導いて行かんと、そのように意気込んでいたにも関わらず、結果としては八方塞がりになったモーセであった。しかしモーセだからこそ、ここまで耐え抜くことができたのだろう。もし私が彼のような目に遭ったとしたら、さっさとイスラエルの同胞を捨て、神へ何と言い訳をするかということばかりを考えながら、もう一度エジプトから逃げ出したことだろう。かと言って、前に住んでいたミデヤンにそのまま帰るのもみっともないと、無駄に高いプライドがあったりで、きっとまた別の土地に逃げ出してしまうことだろう。

エジプトに踏み止まったモーセは「何のために、私を遣わされたのですか」と神に訴えた。そして神は御自身の考えをモーセに語られ、前述のように締めくくっている。すなわちイスラエルの人々を神の民とし、御自身はイスラエルの人々の神となると、神は仰られた。果たしてこれ以上の励ましはあっただろうか。

もし神が助けてくださる、神が見守っておられる、と言われたとしたら、もちろんそれでも十分に人を安心させるに違いない。しかし、それだけだとしたらどうだろうか。人の存在というのは、神の行為の対象であり、それ以上でもそれ以下でもないということになるのではないか。そうでれば私たち人間は、神が助ける対象、神が哀れむ対象でしかないということになるのでは。それについてはむしろ感謝して然るべきことかもしれない。なぜなら創造主たる神が、被造物である人々をそこまで気にかけていてくださるということなのだから。考えてもみれば、最初にエデンの園で神を裏切ったことを思えば、相手にされなくなったとしても文句は言えない立場なのである。しかしながらこれでは神から人への一方通行の関係になってしまうのではないか。それは芸術家が自らの作品を愛でるのと、同じようなものかもしれない。

ところが「あなたがたをわたしの民とし、わたしはあなたがたの神となる」と神が言われているということは、神と人々の間に、創った者と創られた者という関係以上のものを、神は築こうとしているのではないだろうか。つまり神と人々の関係は、神から人への一方的なものだけではなく、人から神への働きかけ、まさしく今、モーセが神と語り合っているようなことも、これからはあり得るということを示しているのかもしれない。神は遠くからイスラエルの民を見守っているだけではなく、イスラエルの民と共におられるようになるということのだろう。

イスラエルの民の間におられる神とは、どのようなお方なのか。神がモーセに語ったことを改めて振り返ってみよう。

「わたしは主である。」神は全能の神であるだけでなく、他の何にも頼ることなく、他の何をも必要とすることなく、存在することができる神である。

「わたしは契約を彼らに立てた。」神はエジプトにいるイスラエルの民の父祖である、アブラハム、イサク、ヤコブに豊かな地を与えると約束をされたお方である。

「わたしはわたしの契約を思い起こした。」何年経とうとも、何世代も後の時代になろうとも、神はイスラエルの民との約束を覚えておられるお方である。

「わたしはあなたがたを救い出し、あなたがたを贖う。」神は異邦人の土地で奴隷として虐げられていたイスラエルの民を、その苦役から救い出されるお方である。

ところで今更ながらに気付いたのだが、神はモーセに語るとき、まず最初に「わたしは主である」と仰っている。そして今また最後に「わたしは主である」と締めくくっている。これは私の考えでしかないが、二度までも同じことを言っているということは、それだけ神は、モーセと話をしているのが誰であるかということを、彼に認めさせ、理解させようとしたのではないだろうか。つまりモーセにとってどれほど状況は不利であろうとも、神御自身が彼と共にいて、彼の訴えを聞き、それに応えているという事実を、彼の心にしっかりと留めておかせようとしたのではないだろうか。

まだモーセもイスラエルの民も、エジプトで奴隷として虐げられており、乳と蜜の流れる地への旅は、始まってすらいなかった。しかし神がアブラハムの子孫である彼らと共におられるというのは、まさしく神御自身の仰られたことなのである。神が彼らの間にいるのであれば、いつかは必ず嘆きから解放され、豊かな地へと導かれるのである。