私は口べたです

「ご覧ください。イスラエル人でさえ、私の言うことを聞こうとはしないのです。どうしてパロが私の言うことを聞くでしょう。私は口べたなのです。」(出エジプト記6章13節)おや、これは一体どうしたということだろうか。モーセはずいぶんと弱気になっているようではないか。つい最近、神から励ましのことばをもらったばかりだというのに、なぜまたこのような不満を神にぶつけているのだろうか。少し前のところには、このように書いてある。ちょうど、モーセが神からことばを頂いた直後のことだ。彼は再びイスラエルの民のところへ出て行き、神のことばを伝えた。すると人々は彼の伝えた神のことばを聞いて、慰められ、励まされ、力付けられた……そう言うことができたら、完璧だったであろう。だが現実はこうだった。「彼らは落胆と激しい労役のためモーセに聞こうとはしなかった。」(同9節)

神がイスラエルの民のためにすばらしい約束をしてくださったと、どれだけモーセが人々に言っても、そもそも疲れ切った彼らには、そのような話を聞こうという気持ちは起きなかったのであろう。ここには書かれてないが、もしかしたら、まだ人々の間にはモーセに対する不信感があったのかもしれない。彼らが置かれている状況を考えると、なぜ彼の話に耳を傾けないのかと、彼らを責めるのも何か違うような気がする。またもやモーセは苦境に立たされてしまった。そのような彼に、神は再び告げて言われた。「エジプトの王パロのところへ行って、彼がイスラエル人をその国から去らせるように告げよ。」(同11節)これに対するモーセの応答は、先に読んだ通りである。なるほど、彼が弱気になってしまうのも、もっともなことである。

さらに神はモーセにこう言われた。「わたしは主である。わたしがあなたに話すことを、みな、エジプトの王パロに告げよ。」(同29節)もはや神はモーセにそれ以外の選択肢を与えようとは考えていなかったようだ。もちろん、モーセに辛い思いをさせたくて、このようなことを言っているのではない。確かに彼の不安も苦労も十分に知っていたに違いない。しかし神はモーセを手放すことはしなかった。神には、モーセを一時的に苦難から解放することよりも、もっと重要な目的があったからだ。それは神御自身が前にも言われたように、イスラエルの民の父祖に約束したように、豊かな地を彼らに与えるということだった。もちろん、モーセ自身も約束の地へと導かれる民の一人なのである。モーセやイスラエル人に、エジプトの地での一時の安らぎを与えることではなく、もっと良いものを与えようというのが、神の計画だった。そのためには、今の苦しみを耐え忍ぶ必要があったのだ。おそらくモーセもそのことは理解していたかもしれないが、それでもこう言わずにはいられなかった。「ご覧ください。私は口べたです。どうしてパロが私の言うことを聞くでしょう。」(同30節)

どうしても気が進まないようである。エジプトの王が自分の話など聞くわけがない、そう決めつけているみたいだ。そしてその理由を「私は口べた」だからと言っている。しかも一度だけでなく、二度も繰り返して言っている。そんなのただの言い訳ではないか、と考えてしまうかもしれないが、私自身も話すのは苦手だから、モーセのそう言いたくなる気持ちも分からないでもない。まぁ、私のような人間を引き合いに出すのは申し訳ないのだが、口べたな私は、人と話すのが苦手なのである。身振り手振りを含めて、言いたいことを伝えることができれば幸いなのだが、そうできないことも多いから非常にやりにくいと思うこともある。そんな私が一番苦手とするのは電話なのである。電話をしないで済むのなら、なるべくならそうしたと思うことがある。モーセがパロのところ行きたくないというのも、まぁ、そういうことあるよな、と納得できる。幸い、今の時代はメールやチャットやビデオ通話や、色々な選択肢があるから、私のような人間でもなんとかやっていくことができる。技術の進歩に感謝である。

さてモーセは口べたを理由にパロのところに行くことを渋っているが、それはちょっと心配のし過ぎであろう。パロがイスラエルの民を解放しないのは、モーセの説明が下手だからでも、説得力に欠けているからでもなく、パロがイスラエルの神に対して心を固くしていたからではないか。「わたしがパロにしようとしていることは、今にあなたにわかる。すなわち強い手で、彼は彼らを出て行かせる。強い手で、彼はその国から彼らを追い出してしまう」と言われた神である。モーセが口べたであろうと口巧者であろうと、行動を起こすのは神なのである。そのような神を信じ、神に従うことが、人が選ぶことができる最善の道なのである。