神が動くとき

「わたしはパロの心をかたくなにし、わたしのしるしと不思議をエジプトの地で多く行なおう。パロがあなたがたの言うことを聞き入れないなら、わたしは、手をエジプトの上に置き、大きなさばきによって、わたしの集団、わたしの民イスラエル人をエジプトの地から連れ出す。わたしが手をエジプトの上に伸ばし、イスラエル人を彼らの真中から連れ出すとき、エジプトはわたしが主であることを知るようになる。」(出エジプト記7章3~5節)もしエジプトの王が、モーセとアロンによって伝えられる神のことばに従わないのであれば、どのようなことになるか。そのとき、神は自ら行動を起こすと言っている。

幸い、と言うべきかどうか、どうも悩ましいところではあるが、「出エジプト記」という旧約聖書の中の一冊を読んだことで、これから何が起こるのかを、すでに私たちは知っているのである。これまでに聖書を読んだことがなかったとしても、エジプトにどのような災いがもたらされることになるかを、映画で見たり、雑学程度に聞いたりしたことのある人々もいることだろう。もしかしたら聖書を信じない人たちにしてみれば、そんなのはただの神話だ、伝説だ、モラルを教えるための作り話でしかないと思うかもしれないが。いずれにせよ、後の世に生きている私たちの視点から見れば、パロのことをなんと愚かな王であろうかと考えるのは容易なことである。神に意地を張って、無駄な抵抗など試みずに、素直にモーセとアロンの要求を受け入れて、イスラエルの民を解放してやればよいものを、と考えてしまうのは、物語の結末を知っている私たちのちょっぴりズルいところなのだろうか。

ところが当のパロにしても、エジプトの人々にしても、またモーセやアロン、それにイスラエルの人々にしても、私たちが過去の出来事として知っていることは、まだ起きていない将来のことなのである。これからどうなるか、そんなことを彼らが知るはずなどなかった。

さてミデヤンの地から戻ってきてからというもの、モーセとアロンは苦境に立たされてばかりだった。同胞であるイスラエルの民でさえ彼らのことを信用していないという、もはや自分たちではどうすることもできない状況だったに違いない。彼らにとっての唯一残されていたの、神に頼むということだった。これから先どうなるか分からないという状況で、神がこのように語られるのを聞いたとき、二人はどう思ったことだろうか。少し彼らの立場に身を置いて考えてみよう。

まず考えられるのは、なぜ神はパロの心をかたくなにさせるのであろうか、そのような疑問を持ったかもしれない。すでにパロはモーセたちに対して、聞く耳を持たないほどに態度を固くさせている。今でも十分にパロを説得するのが困難だというのに、これ以上状況を悪化させたらどうなるか知れたものではない。モーセたちにしてみれば、パロの心をかたくなにさせるのではなく、むしろ柔らかにして欲しいと願ったかもしれない。少なくとも私であれば、そのように願ったであろう。これ以上パロと議論するのは精神的にもきついに違いない。しかし、神には神の考えがあったのだろう。もちろんその時は誰も知ることがなかった。

ではなぜパロが意固地になるのを、そのままに任せるのか。それは、神が不思議なわざとしるしをエジプトで行うためであった。しるしって何だろう、不思議って何だろう、彼らはそのように思ったかもしれない。むしろ不思議なわざなら、イスラエルの民に見せて欲しいとさえ思ったかもしれない。神のわざを見れば、励まされるかもしれないだろうと、考えたかもしれない。しかしながら、神は大きなさばきをエジプトに下すとも言われている。そうだとしたら、神のなさろうとしていることはエジプトの人々にとってはあまり良いものではないかもしれない、と気付いたかもしれない。今まで散々にイスラエル人を苦しめてきたのだ、それが裁かれるのだとしたら、いい気味だ、とモーセたちが思ったかどうかは分からないが、心の狭い私だったら、そう思ってしまうかもしれない。

しかしながら、神はエジプト人に対して、イスラエル人の恨みを晴らすために、これらのことをしようというわけではない。おそらく、エジプトにいたイスラエルの民の多くは、エジプトへの復讐を願っていたかもしれない。神の裁きによってエジプトの王や民が罰せられることを期待したかもしれない。たしかに彼らがそう思うのもあり得ないことではないし、それまでの経緯を考えれば当然かもしれない。

だが神の理由は違った。神の目的はただ一つ、イスラエルの民をエジプトから連れ出すことであった。前にも仰られたように、イスラエルの民を約束の地へ導くことが、神の意思であり、またイスラエルの父祖たちとの約束でもあった。神が行動するのは、それは御自身が言われたこと実現するときなのである。神は、なされると言われたことをなされるお方なのである。そして神が働かれるのを見るとき、真実の神はパロでもなく、偶像でもなく、抽象的な概念でもないことを人々は知るようになるのだろう。