血の川

「モーセとアロンは主が命じられたとおりに行なった。彼はパロとその家臣の目の前で杖を上げ、ナイルの水を打った。すると、ナイルの水はことごとく血に変わった。ナイルの魚は死に、ナイルは臭くなり、エジプト人はナイルの水を飲むことができなくなった。エジプト全土にわたって血があった。」(出エジプト記7章20~21節)蛇の次は血の川である。どちらにしても、正直言ってあまり気持ちの良いものではない。それどころか地の川とは、文字通り生臭くて耐えられないものであったに違いない。もし川の水が「血のようになった」ということであれば、まだ理解はできる。実際プランクトンや藻の異常発生などにより海や河川の水が赤くなることは、ありふれた自然現象なので珍しいことでもなければ、不思議なことでもない。

しかし川の水が血になるとは、普通に考えてみれば、まずあり得ないことである。もしかしたらこれはナイル川で赤潮が発生したのではないか、そういう意見もあるだろう。確かにここで書かれている現象は、赤潮に伴うものと共通点が見られる。例えば魚の死である。海中のプランクトンがエラに詰まったり、酸素濃度が低くなったりで魚が窒息してしまうというのは、実際の漁業被害としてあることだ。瀬戸内海地方では年に億単位の被害が出る年もあるとか。また臭いの問題もある。数年前に東京湾北部で赤潮が発生した時には、千葉市内や都内で悪臭に関する苦情が相次いだこともあった。赤潮の水を飲んでも直接人体に悪影響はないというが、魚が死んだり、悪臭を放っている水を飲もうなどとは、さすがに誰も思わないだろう。

だとすれば、やはりこれは超自然的な出来事ではなくて、ただの自然現象なのではないか。そう言われてしまうかもしれない。だがここで書かれているのは、それだけではない。「エジプト全土にわたって血があった」と書かれている。つまりこの現象はナイル川に限定されたことではなかったということだ。

モーセとアロンが杖でナイルの水を打つ前、神はモーセにこのように言っている。「あなたはアロンに言え。あなたの杖を取り、手をエジプトの水の上、その川、流れ、池、その他すべて水の集まっている所の上に差し伸ばしなさい。そうすれば、それは血となる。また、エジプト全土にわたって、木の器や石の器にも、血があるようになる。」(同19節)神はナイル川の水だけが血になるとは言っていない。それどころか川から切り離されている器の中の水も血になると言っている。当然ながら、水瓶に赤潮が発生するわけがない。水瓶からお椀に注いでみたら、それが血になっていた。そのようなことが起きていたのである。王の宮殿でも、市井の人々の家の中でも、エジプトの地における水という水が血になってしまったのである。これが本当だとすれば、これはプランクトンや紅藻が原因であるとは言えないだろう。

ところでなぜ神はこのようなことをされたのだろうか。「パロの心は強情で、民を行かせることを拒んでいる」ということへの仕返しであろうかと考えてみるのだが、さすがにそれは違う気がする。

まず覚えておきたいのは、エジプトの人々にとってナイル川という存在は重要であったということだ。ナイル川があったがゆえに肥沃な土地があり、作物が豊かに実る土地であった。そもそもイスラエルの民がエジプトに住むことになったのも、飢饉に苦しんでいた先祖が食料を求めてやってきたのがきっかけであった。

またナイル川はエジプト人にとっては神聖なものでもあった。ハピと呼ばれた神はナイル川の神格化された存在であり、砂漠に囲まれたエジプトの地を潤す毎年の洪水をつかさどる神とされていた。その象徴するところは豊潤と豊穣であった。エジプトの民にとって、ナイル川は生命の象徴とも言っても言い過ぎにはならないだろう。

つまりモーセとアロンはエジプトにとって命の源とも言えるナイルを、命ではなく死をもたらす川にしてしまったのである。いや、正確にはこの二人のイスラエル人の仕業というより、イスラエルの神の御業と言うべきだろうか。血に変わったナイルで魚は死に、このままでは土地も痩せて作物も育たなくなるだろう。水という水が血に変わったのでは、人々も渇きで遅かれ早かれ死んでしまうに違いない。エジプトの民は恐れは想像に難くない。とは言え神もエジプトの民を根絶やしにしようと考えていたわけではないようで、七日後には水を戻したようだ。

イスラエルの神の力は、エジプトの生命の象徴ともいえるナイル川のうえにも及んでいるということなのだ。すなわちすべての命は神のみこころ一つによって、生かすことも、終わらせることもできるという、それほどの力を持っていることが示されたのである。パロが神とするものは、イスラエルの神の前には無力であることが明らかにされつつある。