生き残った家畜

「ヘブル人の神、主はこう仰せられます。『わたしの民を行かせて、彼らをわたしに仕えさせよ。もしあなたが、行かせることを拒み、なおも彼らをとどめておくなら、見よ、主の手は、野にいるあなたの家畜、馬、ろば、らくだ、牛、羊の上に下り、非常に激しい疫病が起こる。しかし主は、イスラエルの家畜とエジプトの家畜とを区別する。それでイスラエル人の家畜は一頭も死なない。』」(出エジプト記9章1~4節)このような神からのメッセージを、モーセはエジプト王パロに伝えた。次から次へと災いに見舞われているエジプトであるが、神がその手を緩める様子は見られない。それもそのはず、パロが心を頑なにしイスラエルの民を解放せずにいる限りは、神はエジプトに対して自らの力を示し続けるだろう。

これまでに起こった災いはエジプトの民に不自由な思いをさせたり、不快な経験をさせたり、また一時的な痛みや痒みをもたらす程度の災いであったが、今回は家畜の疫病である。徐々にエジプトやエジプト人への被害が現実的なものとなりつつあることは、誰の目から見ても明らかであろう。さて家畜の疫病と言えば、今日でも時々に話題に上ることがあるが、野生のイノシシから家畜の豚が感染することがある豚熱(豚コレラ)が知られているだろう。万が一にも感染した豚が見つかったら、その農場で飼育している豚をすべて殺処分しなければならないなど、畜産農家の負担は計り難い。経営再建が厳しく廃業に迫られる農家もいるとか。それでも今の日本では、被害額の何割かが手当として行政から支給される制度もあるので、すべてを失ってしまうということはないだろう。

ところでモーセの時代のエジプトで家畜を失ってしまうというのは、どのようなことになるだろうか。彼らにとって家畜とは、移動の手段であり、農作業における労働力であろう。そのミルクや肉は食卓に上り、また糞は肥料や燃料として使うことができたのだ。そう考えてみると、それらすべてを失うということは、まさしく生活の基盤を失ってしまうに等しいのではないか。

しかしながらこれらの災いを避けることはできたのである。実際、神は「もしあなたが、行かせることを拒み、なおも彼らをとどめておくなら」と仰っているではないか。それだけのことなのである。王という地位にあれば、イスラエルの民を自由にさせるというのは、さほど難しいことでもあるまい。今までもそうだったはずなのだが、それでもパロはイスラエルの神の要求を断り続けて、ここに至っているのだ。

「主は時を定めて、仰せられた。『あす、主はこの国でこのことを行なう。』」(同5節)さすがにパロひとりの誤った判断ですべてのエジプトの民が苦しむことになるのは、神も望んではいなかったのかもしれない。もとより神は自らの力を示すことが目的であり、エジプトの民を苦しませたくて災いを起こしていたわけでもない。パロが態度を改めるというのが選択肢のひとつであれば、別の選択肢があったとしても不思議なことではない。神は災いを起こす刻限を定めている。今すぐに疫病をもたらし、エジプト人のすべての家畜を根絶やしにすることもできたはずだが、一日置いて明日に行うと仰られた。つまりエジプトの人々に猶予を与えたのだ。とは言っても、このことが果たしてどれほどのエジプトの人々の知ることになったのかは分からない。今のようにSNSがあるわけでもないので「【拡散希望】明日!イスラエルの神がエジプトの家畜を疫病にさせるって!」なんてこともできまい。人から人へと口伝えだったろうから、ほんのわずかな人たちにしか伝えられなかったかもしれない。今までの経験からイスラエルの神の力を信じたエジプトの人々は、この話を聞いても疑うことはなかったであろう。神が「野にいるあなたの家畜(に)……非常に激しい疫病が起こる」と仰るならば、屋内に入れておけばよい、そう考えたかもしれない。当時のエジプトに家畜小屋があったのかどうかは分からないが、なければ家の中にでも何頭か入れたことだろう。

そして翌日、神が言われた通りのことが起きた。すなわち「エジプトの家畜はことごとく死に、イスラエル人の家畜は一頭も死ななかった。」(同6節)神のイスラエルの民に対する慈しみと、エジプトの民に対する厳格さが明白になっている。

神は良いお方である。しかし良いお方であることと、誰に対しても良い顔をすることは違うのではないか。日本人は公平という言葉や概念が好きな方々が多いようであるが、神は必ずしも人間的な見方での公平な方ではない。神は、神を信じて礼拝する人々を特別に扱われるが、神を信じない人々には厳しくあたることもあるからだ。それは神が不公平だから、というよりも、神が正しいから、というべきであろう。しかし神を信じる機会はすべての人々に公平に与えられているということも、また事実である。モーセの時代のエジプトの民でも、神を信じる機会は与えられていた。なおのこと今の日本に生きる人々には、当時のエジプトの人々以上に神を知る機会が与えられている。神を信じるかどうか、それは神の責任や問題ではなく、この世に生きる一人ひとりの選択なのである。