主のことばを恐れる

「モーセが杖を天に向けて差し伸ばすと、主は雷と雹を送り、火が地に向かって走った。主はエジプトの国に雹を降らせた。雹が降り、雹のただ中を火がひらめき渡った。建国以来エジプトの国中どこにもそのようなことのなかった、きわめて激しいものであった。」(出エジプト記9章23~24節)果たしてエジプトの人々を苦しめていた腫物が治っていたのかどうか。すぐには治るようなものでもないようだし、他の災いの時のように、神が問題を解決したというようなことも書かれていないので、まだ完全には回復をしていなかったのではないかと思う。そのような状況で、新たな災いがエジプトの民を苦しめることになった。

今度は雷と雹であったというから、異常気象のようなものであろう。どの程度かと言えば、エジプトの歴史が記録されているうちでは、それまで誰も経験したことのないようなものであったそうな。そうは言っても所詮は雷と雹ではないか。うみの出る腫物よりは、まだましなのではないかと、私などはそのように考えてしまう。国中の人々が皮膚病を患ってしまうという、それよりも悪いことなど有りうるのだろうかとも思ってしまう。この嵐について、神はこのように言っている。「今すぐ使いをやり、あなたの家畜、あなたが持っている野にあるすべてのものを避難させよ。野にいて家へ連れ戻すことのできない人や獣はみな雹が落ちて来ると死んでしまう。」(同19節)つまり人や獣はみな雹に当たって死んでしまうということであろうか。

雹なんてただの氷の粒ではないかと考えてしまうが、中には人間のげんこつほどの大きさのものをある。そのような氷の塊が時速百キロ近くの速さで空から降ってくるのだからたまらない。ニュースなどで家屋の屋根や壁、農家のグリーンハウス、駐車場の車が壊されてしまうのを見たこともあるだろう。ついでまでに言うと、記録されている中では、ボウリングのボールほどの大きさの雹も降ったことがあるそうだ。なるほど、そのようなものが直撃したら、死んでしまうこともあるだろう。実際、過去には日本でも雹にあたって死者が出たこともあるそうだ。

そうやって考えると、たしかに雹は恐ろしい。だが、それ以上に恐れるべきは、死者が出ることを認められた神のエジプトに対する態度ではないか。今まで多くの災いが起きたが、人の命が失われることはなかった。先の疫病では家畜は死んだが、人間は誰一人として死ななかった。腫物では人々の健康は害されたが、やはりそれでも誰も死ぬものはいなかった。人間的に考えると、神のエジプトの民に対する哀れみの思いがあったからなのだろうかとも思えてくる。しかし本当はそのような感傷的なものではなかった。神はこのように仰っている。「わたしは、わたしの力をあなたに示すためにあなたを立てておく。また、わたしの名を全地に告げ知らせるためである。」(同16節)エジプトの王と民は、神の名を広く知らしめるために生かされていたと言うのだ。

「パロの家臣のうちで主のことばを恐れた者は、しもべたちと家畜を家に避難させた。しかし、主のことばを心に留めなかった者は、しもべたちや家畜をそのまま野に残した。」(同20~21節)エジプトの民のことごとくが神からの警告を無視していたわけではなかった。パロの身近にいた家臣でさえ、神のことばを信じて恐れ、そして従った者がいたのだ。だがおそらくは、そうではない者がほとんどであったろう。

そして神が言われた通りになったのである。「雹はエジプト全土にわたって、人をはじめ獣に至るまで、野にいるすべてのものを打ち、また野の草をみな打った。野の木もことごとく打ち砕いた。」(同25節)この災いから逃れることができたのはイスラエルの民と、そして彼らの神のことばを聞いて信じたエジプトの民だけだった。エジプトの被害は計り知れないものであったに違いない。野にいた人々や獣は死に、それどころか草木の被害も甚大であった。

とうとうエジプトの王も自らの過ちを認めたかのように、モーセとアロンにこのように言った。「今度は、私は罪を犯した。主は正しいお方だ。私と私の民は悪者だ。主に祈ってくれ。神の雷と雹は、もうたくさんだ。私はおまえたちを行かせよう。おまえたちはもう、とどまってはならない。」(同27~28節)しかしこれはパロや家臣たちの本心ではなかったし、モーセもそれには気付いていたようである。しかしモーセは彼らの願いを聞き入れ、こう伝えた。「私が町を出たら、すぐに主に向かって手を伸べ広げましょう。そうすれば雷はやみ、雹はもう降らなくなりましょう。」(同29節)

これはモーセがパロたちに屈服したからでもなければ、困っているエジプトの人々を可哀想に思ったからでもない。モーセが言うように「この地が主のものであることをあなたが知るため」(同)であった。すなわちエジプトが未だかつて見たことがないような雷と雹の嵐をもたらしたは、イスラエルの神のわざによるものであり、またそれを収めたのも同じイスラエルの神であるという事実を、多くの民が知るようになるためだった。

しかし神のことばを信じる者は幸いである。神はそのような者を災いから守られるのだ。