食い尽くされる

「ヘブル人の神、主はこう仰せられます。『いつまでわたしの前に身を低くすることを拒むのか。わたしの民を行かせ、彼らをわたしに仕えさせよ。もし、あなたが、わたしの民を行かせることを拒むなら、見よ、わたしはあす、いなごをあなたの領土に送る。いなごが地の面をおおい、地は見えなくなる。また、雹の害を免れて、あなたがたに残されているものを食い尽くし、野に生えているあなたがたの木をみな食い尽くす。』」(出エジプト記10章3~5節)モーセとアロンはエジプトの王パロにこのように警告をした。彼らの言うことは必ず現実のものとなることを、この頃には誰も疑うことがなかっただろう。皮膚病に苦しみ、雹の嵐に痛めつけられ、今度はいなごの大群がやってきて残された僅かな食料さえも食いつくすという。ナイル川の肥沃な土地で多くの作物を収穫することのできたエジプトは、これまで食料に困難するということはなかったのだろう。それだけ恵まれていたのである。

しかし振り返ってみれば、このようなエジプトの繁栄も、イスラエルの神の恵みによるところがあったのではないか。モーセの時代よりもっと昔のこと、神は不思議な方法でヨセフをエジプトに遣わし、彼をエジプトのうちで地位のある者として立たせ、彼の働きによってエジプトは豊かな国になったではないか。そして飢饉で苦しむイスラエルの民を救うことになったということも忘れてはなるまい。(創世記39~45章)そう考えると、イスラエルの民もこの地におらず、イスラエルの神も存在していなかったとしたら、エジプトが栄えるという可能性は、もっと低かったかもしれない。それこそモーセの時代に至ることなく飢饉で滅んでしまっていたかもしれない。

ところでいなごと言えば、しばらく前にインドでいなごの大群が発生したとニュースでもやっていたように、いなごに農作物を荒らされてしまうというのは、西アフリカからインドに掛けては度々起こることであり、それ自体は珍しいことでも不思議なことでもない。もっとも日本でいなごと言えば、佃煮にして食べてしまうくらいなので、むしろいなごにとっては人間の方が脅威かもしれない。そんなわけだから、いなごの大群が襲来するというのは容易には想像できない。しかし、それがどのようなものであるかを知っているエジプトの人々にとっては、すべての作物をいなごに食べられてしまうというのは、それこそ国の存在が脅かされてしまうようなものだったろう。もはやヨセフのように神を恐れ、正しい判断を下す宰相はエジプトにはいなかった。それどころか、神の前に身を低くすることを拒む王がいるのみだった。

さすがにパロに仕える者たちでさえも、これからのことに不安を覚えたに違いない。彼らのうちでも良識のある者たちは王にこのように訴えた。「いつまでこの者は私たちを陥れるのですか。この男たちを行かせ、彼らの神、主に仕えさせてください。エジプトが滅びるのが、まだおわかりにならないのですか。」(出エジプト記10章7節)

モーセやアロンの言葉に耳を貸さないパロの頑固さを思えば、彼自身の家臣たちの訴えを聞き入れることもなかったであろう。おそらく本心からではなく、家臣たちの手前ということもあってだろうが、パロはモーセにこう言った。「行け。おまえたちの神、主に仕えよ。だが、いったいだれが行くのか。」(同8節)

モーセはパロにこう答えた。「私たちは若い者や年寄りも連れて行きます。息子や娘も、羊の群れも牛の群れも連れて行きます。私たちは主の祭りをするのですから。」(同9節)つまりすべてのイスラエルの民と、彼らの所有するすべての家畜を連れて出て行くということになる。

これを聞いたパロは言った。「そうはいかない。さあ、壮年の男だけ行って、主に仕えよ。それがおまえたちの求めていることだ。」(同11節)そもそもパロはイスラエルの民を行かせる気はなかったのだろう。だから、このような条件を付けたに違いない。モーセたちが家族と家畜を置いて出て行くことはないと、そのように考えたのだろう。結果として、パロはイスラエルの民を行かせなかったのだ。そしてエジプトが迎えたのは経済的な死であった。「いなごの大群はエジプト全土を襲い、エジプト全域にとどまった。……それらは、地の草木も、雹を免れた木の実も、ことごとく食い尽くした。エジプト全土にわたって、緑色は木にも野の草にも少しも残らなかった。」(同14~15節)

イスラエルの神のことばに従わなかったエジプト王への懲らしめとして見ることもできよう。しかし神はこれらのことに先立ってモーセにこう言っていた。「それは、わたしがわたしのこれらのしるしを彼らの中に、行なうためであり、わたしがエジプトに対して力を働かせたあのことを、また、わたしが彼らの中で行なったしるしを、あなたが息子や孫に語って聞かせるためであり、わたしが主であることを、あなたがたが知るためである。」(出エジプト記10章1~2節)神の起こした災いはエジプトの民にとっては不幸なことであったが、同時にイスラエルの民にとっては、子々孫々まで伝えるられるべき神の力の現れでもあったことをおぼえておきたい。