Devoid of Light

「モーセが天に向けて手を差し伸ばしたとき、エジプト全土は三日間真暗やみとなった。三日間、だれも互いに見ることも、自分の場所から立つこともできなかった。」(出エジプト記10章22~23節)エジプトが真っ暗闇に包まれたという。夜が暗いのは当然である。しかし昼間であったにも関わらず、夜のように闇になってしまったのだ。一体どういうことなのか、何が起こったのか。真っ先に思いつくの皆既日食であろう。たしかに月が太陽を隠せば、昼間でも夜のように暗くなる。だがエジプトは三日間も暗かったのである。普通に考えれば、日食がそんなに長く続くことはないことは明らかである。何年かに一度のチャンスと期待しても、始まったかと思ったらすぐに終わってしまうのが日食である。ちなみにここ一万年の間でもっとも長い日食とは、西暦2186年7月16日に観測できるもので、7分29秒続くそうだ。観測できる場所は南米ガイアナ共和国の首都ジョージタウンの東の沖合約1200キロの大西洋上である。残念ながら私は見ることができないが、もし見ることができたら貴重な体験となるだろう。

しかし長いと言っても、わずか7分と半分である。三日間続いたということは、エジプトを覆った暗闇は皆既日食で説明がつくようなものではない。果たしてどのような暗闇だったのだろうか。聖書にはこのこのように書かれている。「だれも互いに見ることも、自分の場所から立つこともできなかった。」夜のような暗闇とは違った。夜の闇であれば、月や星の明かりもあるであろうし、松明やロウソクの灯りもあるだろう。しかし隣にいるはずの人の顔も見えず、自分自身がどこにいるのかも分からないような暗闇だったいうではないか。そのような暗さというのは、日常では経験することのないものである。どんなに暗いと言っても、眼の前に持ってきた自分の手すら見えないというのことは、まずないであろう。もしこの世でそのような場所があるとしたら、それは光の届かない洞窟の中、地の底くらいしか考えられない。

このときエジプトに起きたことは、国中が暗闇で覆われたと言うよりも、国中からすべての光が消え去ったと言った方が正しいのかもしれない。自然によるものも、人間が作り出すものも、ありとあらゆる光や灯が三日間も消えてしまったのである。

先に起きた家畜の疫病、膿の出る腫物、雷と雹、いなごの大群などの災いと比べると、その性格はだいぶ違っているようである。光が失われるということは、肉体的苦痛をもたらすこともなければ、経済的な危機を引き起こすようなものでもないだろう。そう考えると、どちらかと言えば、まだ受ける影響は少ないのではないかと思えてしまう。しかし光が見えない、つまり何も見えない状態で三日を過ごすというのは、精神的に相当な負担が伴うものだったのではないかと想像できる。これまでは人を外側から脅かす災いだった。肉体的な病や傷は時間と共に癒えるものである。経済も農作物が再生すれば元のように回復するだろう。しかし光がないということに対する恐怖心は、一度人の心に植え付けられてしまったら、簡単には取り去ることができないだろう。しかしエジプトの地が暗闇に覆われるということは、エジプトの王や民にとってはただの暗闇に対する恐怖以上のものだったとも考えられよう。

電気がある現代においても一番身近で、最も明るい光とは、太陽からのものである。電気のない時代のことであれば、なおさらである。日本でも古来太陽は「おてんとうさま」と呼ばれて神格化され、「おてんとうさまが見ている」と言うように生活に密接した存在とされているではないか。古代エジプトでも同じである。エジプトの民にとって太陽は神でもあったのだ。太陽神ラーはエジプトの神々のうちでも最も重要な存在とされていた。彼は、この世界の創造者であり、天と地と冥府を司る神であり、創造されたものの支配者であった。そして同時にエジプト王の守護者でもあった。そのことを考えると、エジプト全土が闇に包まれるということは、太陽神ラーの存在そのものが否定されたことにもなるだろう。また王の守護者たる神が不在ということは、すなわち王を権威付ける土台となるものがないということも同然である。これらは暗闇以上にエジプトのすべての人々を恐慌させただろう。そして何より彼らを恐れさせたのは、イスラエルの神の前にあっては彼らの礼拝する太陽神ラーが無力とされてしまったという現実であろう。

エジプトが暗闇に包まれていたときイスラエルの民はどうしていたか。先の箇所はこのように続けられている。「しかしイスラエル人の住む所には光があった。」(同23節)なぜイスラエルの民のいる場所には暗闇に閉ざされなかったのか。

「イスラエルの神の栄光が東のほうから現われた。その音は大水のとどろきのようであって、地はその栄光で輝いた。」(エゼキエル書43章2節)イスラエルの民は神の栄光と共にあったからだろう。イスラエルを照らすのは太陽でもなく月や星でもなく、木切れを燃やす灯りでもなかった。ただ神の臨在が彼らの光となっていたのだろう。