区別する神

「パロは彼に言った。『私のところから出て行け。私の顔を二度と見ないように気をつけろ。おまえが私の顔を見たら、その日に、おまえは死ななければならない。』モーセは言った。『結構です。私はもう二度とあなたの顔を見ません。』」(出エジプト記10章28~29節)神がエジプトの全土を闇で覆ったとき、エジプトの王はモーセを呼び出して、羊や牛などの家畜を置いていくならという条件を付けて、神を礼拝するために出て行っても構わないと伝えた。しかしモーセはイスラエルの民だけではなく、家畜も一頭残らず連れて行かなければならないと答えた。そもそも、神にいけにえを捧げるためには家畜を連れて行かないことには何も出来ない。それでモーセは家畜も連れて行くと答えた。どうしてもモーセの言う通りにイスラエルの民を行かせたくない王は怒りに任せて「二度と顔を見せるな」と言ったのである。

しかし振り返ってみれば分かることだが、モーセが王のところに来たのではなく、王がモーセを呼び出したわけである。そう考えると「私の目の前から失せろ、二度と顔を出すな」と言われてしまうのは、甚だ理不尽でもあろう。そう言い放ったパロに「もちろん二度と顔を見るものか」と、モーセは言い返した。これではまるで、売り言葉に買い言葉である。エジプトの最高権威者であるはずのパロと、イスラエルの民と神の代弁者であるはずのモーセのやりとりにしては大人気がないと思えてしまうが、パロがイスラエルの神を認めないのでは仕方がないというのも事実であろう。

「結構です。私はもう二度とあなたの顔を見ません。」そう言い切ったモーセの決意は確かなものであったに違いない。本当にこの後二人は二度と相見えることはないのかというと、実はしばらく後に再び会うことになるのだが、少なくとも今は二人は決別したと言えよう。モーセが二度とパロのところに来ない、ということはつまり、イスラエルの神の代理人は、もはや今後は神のメッセージをエジプトに伝えることはない、ということにもなるだろう。パロはエジプトと神を絶縁させてしまったということになるのだ。これまでは辛うじてとはいえ、モーセとアロンを介して神との関係を保つことはできたであろうが、今後はそれもなくなってしまうのだ。つまりエジプトは神から完全に見放されてしまうことになるも同然である。遠い昔、ヨセフの働きにより飢饉から救われたばかりか、さらなる繁栄を享受することになったことも、神の御業によるものであろうし、それを思うとモーセの時代まで間接的ではあったかもしれないが、イスラエルの神はエジプトとは浅からぬ関係があったと考えることもできるだろう。しかし今この時をもって、それもすべて終わりとなるのだ。

しかしながらモーセとパロが決別したからと言って、エジプトの地で災いが収まったかと言えば、そうではない。パロが神を否定したからと言って、神がエジプトを放置するということにもならない。むしろその反対である。イスラエルの民が自由になるまでは、神は徹底してその力をエジプトに示し続けると決めていたからだ。

神はモーセにこう教えている。「わたしはパロとエジプトの上になお一つのわざわいを下す。そのあとで彼は、あなたがたをここから行かせる。彼があなたがたを行かせるときは、ほんとうにひとり残らずあなたがたをここから追い出してしまおう。」(同11章1節)パロがイスラエルの民を自由にするまで、まだ災いが一つ残されているのだ。その災いとは、どのようなものか。神はモーセの口を通してこう言っている。「真夜中ごろ、わたしはエジプトの中に出て行く。エジプトの国の初子は、王座に着くパロの初子から、ひき臼のうしろにいる女奴隷の初子、それに家畜の初子に至るまで、みな死ぬ。そしてエジプト全土にわたって、大きな叫びが起こる。このようなことはかつてなく、また二度とないであろう。」(同4~6節)神が言われたことなので、そのような悲惨なことが本当に起こるかどうかと疑う余地はなかったに違いない。おそらくそれを聞いた聞いたエジプトの人々は、信じたくなかったであろうが、イスラエルの神がそうなると言ったことは必ず起きることを嫌でも知ることになったはずだ。その後のことをモーセはこう言っている。「あなたのこの家臣たちは、みな、私のところに来て伏し拝み、『あなたとあなたに従う民はみな出て行ってください。』と言うでしょう。私はそのあとで出て行きます。」(同8節)最後にそれだけ言うと、モーセは怒りに燃えてパロのところから出て行った。

最後の災いで犠牲になるのは、エジプトの民の初子であり、また人間ばかりでなく家畜の初子さえも含まれている。なぜ神はそこまでするのだろうか。そのわけをモーセはこう言っている。「主がエジプト人とイスラエル人を区別されるのを、あなたがたが知るためです。」(同7節)

ところで次にイスラエルとエジプトが和解するのは1979年のことである。モーセもパロも、もういない。だが昔も今も、そしてこれからも、けして変わることのない神はおられる。神は御自身を信じる者と、そうでない者を区別される、厳しいお方であることを忘れてはなるまい。