門柱とかもいのしるし

「その夜、わたしはエジプトの地を巡り、人をはじめ、家畜に至るまで、エジプトの地のすべての初子を打ち、また、エジプトのすべての神々にさばきを下そう。わたしは主である。」(出エジプト記12章12節)その夜とは、はたしていつの夜のことを示しているのだろうか。おそらくエジプトの民は「その夜」がけしてやってこないことを願っていたに違いない。なぜなら「その夜」には、これまでにエジプトを襲ったいずれの災いなど比較にならないほどの、恐ろしいことが起こるからだ。

イスラエルの神は、前にこのように言っていた。「真夜中ごろ、わたしはエジプトの中に出て行く。エジプトの国の初子は、王座に着くパロの初子から、ひき臼のうしろにいる女奴隷の初子、それに家畜の初子に至るまで、みな死ぬ。」(同11章4~5節)地位のある者も卑しい者も、富のある者も貧しい者も、人間であろうとも動物であろうとも、神のもたらす災い、すなわち初子の死、から逃れることはできないと神が言っているのだ。もしこの災いから逃れたいと思うのであれば、それこそイスラエルの民として生まれ変わる以外に手段はなかったであろう。そして残念ながら、それは実現可能なものではなかった。エジプトの民は、ただ神の言われている「その夜」がいつ訪れるのかと怯えながら日を過ごすしかなかったであろう。

さてエジプトの民が、恐れと不安に苛まれる一方で、イスラエルの民は、どのように過ごしていたのだろうか。神はモーセとアロンに、イスラエルの人々はどうするべきかを教えた。神が言うには、人々は各家族ごとに一頭の傷のない一歳の雄の羊、もしくはやぎを用意し、決められた日になったら「……イスラエルの民の全集会は集まって、夕暮れにそれをほふり、その血を取り、羊を食べる家々の二本の門柱と、かもいに、それをつける。その夜、その肉を食べる。すなわち、それを火に焼いて、種を入れないパンと苦菜を添えて食べなければならない。」(同12章6~8節)とのことだった。

羊を焼いて食べるというのは分かる。しかしなぜその血を門柱とかもいに塗らなければならなかったのだろう。神は、そのことについてこう教えている。「あなたがたのいる家々の血は、あなたがたのためにしるしとなる。わたしはその血を見て、あなたがたの所を通り越そう。わたしがエジプトの地を打つとき、あなたがたには滅びのわざわいは起こらない。」(同13節)どうやらその血はイスラエルの民であることのしるしであったようだ。今の時代を生きる我々の感覚からすれば、それは神の災いに遭わないためのまじない的な意味をもったことのように思えてしまうが、実際にそれを行ったモーセの時代のイスラエルの人々からすれば、それはもっと現実的なことであったに違いない。さきに引用した箇所にもあるように、決められた日の夜になったら神はエジプトの全土を巡り、すべての家の、人も家畜も区別なく、初子を打ち殺すという。神がその家の前に来た時、その家はイスラエルの民が住む家なのか、それともエジプトの民が住む家なのか、それを見分けるためのしるしとして、門柱とかもいに血を塗るように教えたのだろうか。だとしたら、神の災いを誤って受けないように、人々も必死になったことだろう。

しかしふと思うのだが、すべてを知っておられる神なのだから、わざわざそのようなしるしを付けさせなくても、イスラエルの民の家とエジプトの民の家くらい容易に見分けることができたのではないかと。全知全能の神にしてみれば確かにその通りだろう。

であるとすれば、神の仕事を楽にするために、イスラエルの人々にしるしを付けさせたわけではないのかもしれない。むしろしるしを付けるという行為は、神が彼ら自身のために「過越のいけにえ」の意味を知らしめるためにさせたことなのかもしれない。なぜなら神はこのようにも言っているではないか。「この日は、あなたがたにとって記念すべき日となる。あなたがたはこれを主への祭りとして祝い、代々守るべき永遠のおきてとしてこれを祝わなければならない。」(同14節)この日、エジプトにとっては恐れるべき日であり、後々まで忘れることのできない悲しむべき日として思い出されることになったことだろう。しかしイスラエルにとっては、記憶すべき日となり、世代を超えて祝うべき日としなければならないのだ。

ところでその夜、イスラエルの民もエジプトの民も変わることなく、家の中で息を潜めていたことだろう。神の気配を家の外に感じた時、神がそのまま通り過ぎて行くか、それとも災いをもたらすかと戦々恐々としたに違いない。神が家の外に立った時、そこに羊の血が塗られているのを見い出すかどうかで、その家の明日が決まってしまうのである。神が教えた通りにしるしを付けたかどうか、たったそれだけの違いなのかと思ってしまうが、神のことばに従うかどうか、それだけの違いで人の行く末は大きく変わってくるのかもしれない。