出て行け

「真夜中になって、主はエジプトの地のすべての初子を、王座に着くパロの初子から、地下牢にいる捕虜の初子に至るまで、また、すべての家畜の初子をも打たれた。それで、その夜、パロやその家臣および全エジプトが起き上がった。そして、エジプトには激しい泣き叫びが起こった。それは死人のない家がなかったからである。」(出エジプト記12章29~30節)エジプトの人々にとって不幸なことに、神が言われた通りのことがおきた。エジプトのすべての家で、王座に座るパロの子供であろうが、地下牢に囚われていた囚人の子供であろうが、貴賤を問わずにすべての家で死者が出たのである。そにしても「死人のない家がなかった」とは被害を大げさに言っているのではないか、と思えてしまう。そのようなことは実際には起きていなかったのでは、と聖書に書かれていることを疑っているわけではない。ただ私の理解を超えているというか、想像することさえできない。

現在の日本では、50歳の男性の4~5人に1人、女性では6~7人に1人が未婚だというし、子供のいない夫婦は20組に1組ほどあるそうだ。さらに全世帯の8割以上は核家族の世帯であることを考えると、子供のいない家というのがさほど珍しいものではないというのが、私たちにとっての日常なのである。そのような先入観を脇に置いて、当時のエジプトの時代的な背景を考えると、すべての家に初子がいたというのもあり得ることかもしれないと思えてくる。そこで改めて当時の様子を想像してみる。つまり神がエジプトにこの災いをもたらした翌朝、道を歩いてればエジプト人の住むすべての家から泣き叫ぶ声が聞こえてくるのである。街中が悲しみの泣き声で満たされるという、なんとも凄惨な状況であったに違いない。正直、私だったらその場にはいたくはない。

「おまえたちもイスラエル人も立ち上がって、私の民の中から出て行け。おまえたちが言うとおりに、行って、主に仕えよ。おまえたちの言うとおりに、羊の群れも牛の群れも連れて出て行け。そして私のためにも祝福を祈れ。」(同12章31~32節)事ここにに及んで、エジプト王はイスラエルのすべての民を行かせることにした。またモーセが望んだように、すべての家畜の群れを連れて行くことにさせたのだ。

さて今までのことを振り返ってみると、エジプト王は一度ならずも何度かイスラエルの民を行かせると、口では言っていた。しかし毎回理由を付けては彼らを行かせようとはしなかった。これまでは「私は、おまえたちを行かせよう。」とか「行け。おまえたちの神、主に仕えよ。だが……」と、パロ自身の意志でイスラエルの民の進退を決めようとしていたかのような言い方であったが、今回は「私の民の中から出て行け。」と、もはや半ば悲鳴を上げているかのうように必死な様子が伺える。ようやくイスラエルの民を留めておくことを諦めたようである。

おそらくパロはイスラエル人の労働力をあてにしていたであろうし、またモーセやアロンを通して語り掛けてくるイスラエルの神に屈することは、人々の上に君臨し、エジプトの神々の庇護を受けている王としての自尊心から受け入れられなかったはずだ。王にとってイスラエルの民を行かせるということは、自身の立場を弱くすることにもなるので、なんとしてでも彼らをエジプトの地に縛り付けておきたかったのだろう。そしてエジプトの民の多くもイスラエルの民を奴隷として見ており、自分たちも民族としての誇りをもっていたのだろう。

ところが今度ばかりは彼らもそれまでの態度を一変させて「(イスラエルの)民をせきたてて、強制的にその国から追い出した。」(同33節)その理由は純然たる恐れからであった。「われわれもみな死んでしまう。」(同)初子が死んだという悲しみだけではなく、このままではまた家族のうちの誰かが死んでしまうかもしれないという不安であり、もしかしたらそれは自分かもしれないという恐れであっただろう。

もはやイスラエルの民は、彼らに富と繁栄をもたらす労働力ではなく、災いばかりか死をもたらす存在として忌むべき者となっていた。もはや奴隷たちの礼拝する神などに屈したくないというおごりも、どこかへと消え去ってしまったことだろう。彼らにとって生き残る道は、イスラエルの民を自由にさせることだけだった。エジプトの王も、エジプトの神々も、結局はイスラエルの神の前では無力であることが明らかになってしまったのだ。こうしてイスラエルの民はようやくエジプトの地を去ることになったのである。「イスラエル人がエジプトに滞在していた期間は四百三十年であった。四百三十年が終わったとき、ちょうどその日に、主の全集団はエジプトの国を出た。」(同40~41節)

神は必ずや御自身の民を、それぞれが捕らわれの身となっているその場所から解放させるのである。時としてそれは神の民を捕らえている者の方から、出ていって欲しいと乞われてしまうような、捕われている側にはまったく予想していないような方法かもしれない。まさしく神は不思議な働きをなされるお方なのである。