追跡(前)

「イスラエル人に、引き返すように言え。そしてミグドルと海の間にあるピ・ハヒロテに面したバアル・ツェフォンの手前で宿営せよ。あなたがたは、それに向かって海辺に宿営しなければならない。パロはイスラエル人について、『彼らはあの地で迷っている。荒野は彼らを閉じ込めてしまった。』と言うであろう。」(出エジプト記14章2~3節)神はモーセにこのように言った。このように言われて、果たしてモーセはどのように思ったのだろうか。聖書には何も記されていないので、私の勝手な想像になってしまうが、もしかしたら、こう考えたかもしれない。「なぜ、今さら引き返さないとならないのか。それよりも今すぐ、急いで行かなければいけないのでは。もしかしたら、パロの追手がすぐそこまで迫っているかもしれないのに。」そもそもエジプトを出発する時の様子は、このように書かれている。「彼らは、エジプトを追い出され、ぐずぐずしてはおられず、また食料の準備もできなかったからである。」(同12章39節)のんびりと旅する余裕はなかったであろう。

彼らは旅を続けて、エジプトから遠く離れた、神が約束された乳と蜜が流れているという約束の地を目指していた。それなのになぜ、ここで引き返さないといけないのか。モーセにはその理由が分からなかったかもしれない。しかしたとえ理由は分からなかったとしても、神がそうするようにと命じるのであれば、モーセもイスラエルの民も、それに従う他にはなかったであろう。なんと言っても、彼らが今いるのは荒野であった。エジプトでの奴隷としての生活からは開放されたが、自由の身になれたとは言っても、快適はおろか安心安全とすら言えない状況であったろう。神の導きと支えなしでは、どうすることもできなかったに違いない。

「わたしはパロの心をかたくなにし、彼が彼らのあとを追えば、パロとその全軍勢を通してわたしは栄光を現わし、エジプトはわたしが主であることを知るようになる。」(同14章4節)これまでに数々の災いがエジプトの地と国民を襲ったにも関わらず、エジプトの王はまだイスラエルの神に負けを認めようとはしないであろうと神は言う。神がパロの好きにさせておくのは、エジプトの民がイスラエルの神を知るためであるとも。ナイルの水がことごとく血に変わったときから、一貫して神の意図していることは変わっていない。

さてイスラエルの民が本当に逃げたことが王に知らされると「パロとその家臣たちは民についての考えを変えて言った。『われわれはいったい何ということをしたのだ。イスラエルを去らせてしまい、われわれに仕えさせないとは。』」(同5節)自分たちで出て行けと言っておきながら、今になって考えを変えるとは何とも自分勝手なと思ってしまうが、振り返ってみれば、パロがイスラエルの民を行かせたのは、モーセたちの言い分に納得したからではなかったからであろうことは容易に想像がつく。おそらくこのまま彼らを行かせずに、エジプトに留めておいたら、さらなる災いに見舞われるのではないかと、次に死んでしまうのは自分たちではないかと国民が恐れていただけだったからだろう。

そしてエジプト王の正直な気持ちはここに書かれているように、もっとエジプトのために働かせなければならないというものだった。エジプトにとってイスラエルの民を追い出してしまうということは、すなわち主要な労働力を失うということでもあった。パロは自分の国を維持するために、また王としての地位を守るためにも、イスラエルの民を連れ戻さねばならないと考えたに違いない。そこでパロは「戦車を整え、自分でその軍勢を率い、えり抜きの戦車六百とエジプトの全戦車を、それぞれ補佐官をつけて率いた。」(同6~7節)まるでこれから戦を始めるかのような様相である。すでにイスラエルの民は出て行ってしまった後である。おそらく徒歩で追いかけるよりは、馬に戦車を曳かせる方が早いと考えたのかもしれない。つまりそれだけ必死だったのである。

そしてイスラエルの民が引き返したことで、パロの軍勢は彼らを見つけることができたのだ。驚いたのはイスラエル人の方であろう。神に従ってきたと思ったらこれである。「イスラエル人が目を上げて見ると、なんと、エジプト人が彼らのあとに迫っているではないか。イスラエル人は非常に恐れて、主に向かって叫んだ。」(同10節)

そして挙げ句の果てにモーセに文句を言い出す始末だった。「エジプトに仕えるほうがこの荒野で死ぬよりも私たちには良かったのです。」(同12節)確かに彼らにしてみれば、エジプトの地で生まれ生活してきたのである。民族的にはエジプト人ではなかったが、彼らにはエジプトが故郷と呼べる場所だったのである。神に期待し、モーセに導かれるままにエジプトを出てきたが、何の馴染みもない荒野で命を落とすくらいなら、勝手知ったる土地で酷使された方がまだ良かった。それが彼らの言い分だった。

パロにしてもイスラエルの民にしても、追い詰められて本音を吐き出してしまったようなものだろう。それは仕方のないことだ。肝心なことは、その後どうするかである。(続く