神は連れて行く

「モーセとイスラエル人は、主に向かって、この歌を歌った。」(出エジプト記15章1節)彼らのすぐ後ろでエジプト王が誇る精鋭部隊が海に飲み込まれたちょうど後だった。彼らはようやくエジプトの手が届かぬところにやってきたのである。約束の地はまだ先であったが、彼らを追う者たちはいなくなったのである。後は目的地を目指して進むだけだった。おそらく彼らは、いまだかつて味わったことのない安心感と解放感とに満たされていたに違いない。そのような彼らであったから、自然と神に向かって歌を歌ったのであろう。信仰を持つに至ってから来年で30年になろうかという私であるが、そのような気持ちになったことがないのは、もしかして私がモーセやイスラエルの民が味わったような喜びを経験したことがないからだろうか。

思えば若かったあの頃、イエス・キリストを救い主として受け入れて、それが罪からの解放であり、また同時に天の御国に行けるという確約、すなわち永遠のいのち、という安心を得られたことでもあり、考えてみるとそれは、イスラエルの民が体験したことと同じだったのかもしれない。そのように今になって思うのだが、あの日の自分にはそのような感動はまるでなかった。もっとも父祖の代から四百年以上も捕われの身であったと彼らのことを思えば、神のことなど何も考えずに19年しか生きてこなかった私が、いきなり方向転換をしたというのだから、イスラエルの民のような喜びを感じなかったとしても、それはそれで仕方のないことかもしれない。

ところでイスラエルの民は神にどのような歌を歌ったのだろうか。聖書にはこのように書かれている。「主に向かって私は歌おう。主は輝かしくも勝利を収められ、馬と乗り手とを海の中に投げ込まれたゆえに。主は、私の力であり、ほめ歌である。主は、私の救いとなられた。この方こそ、わが神。私はこの方をほめたたえる。私の父の神。この方を私はあがめる。」(同1~2節)

イスラエルの民の歌を読むと、神がどのようなお方であるかが見えてくるようだ。まずはじめに、神がエジプトに対して勝利を収められたということが歌われている。まさしく、つい今しがた起こったことである。神の勝利を通して、神がイスラエルの人々にとっての力であり、また彼らの救いであるということを、人々は確信できたのである。またこの神こそが、彼らがあがめ、ほめたたえるべきお方であることを改めて知ることになったと言えよう。

彼らはこの後も神をたたえて歌い続けている。全部をここで引用すると長くなり過ぎてしまうが、神がいかに力強いお方であるかが歌われている。「主はいくさびと。」(同4節)「あなたの右の手は力に輝く。主よ。あなたの右の手は敵を打ち砕く。」(同6節)「あなたが燃える怒りを発せられると、それは彼らを刈り株のように焼き尽くす。」(同7節)「あなたの鼻の息で……大いなる水は海の真中で固まった。」(同8節)

エジプトを打ち破りイスラエルの民を救い出した神は、彼らが歌っているように力強いお方である。彼らが経験してきたことを振り返れば、疑問を挟む余地はあるまい。そして同じ神が、我々を罪から解放してくださったのである。そうは言っても、なかなかそのように実感することはないかもしれない。もしかしたらそれは、我々にとってはイエス・キリストの十字架での働きに目が向きやすいからのではないだろうか。

十字架の上で我々の罪の身代わりとして死なれたと考えると、非業の死を遂げたという印象ばかりに目が向いてしまい、抗うことなく、おとなしく十字架につけられる様子は、どちらかと言えば弱々しげな印象を持ってしまいがちである。しかしながら実際には、罪とその結果から来る死を打ち破られたほどに、強い力を持ったお方がイエス・キリストなのである。この地上でどれほどの権力、財力、知力、体力を誇る者であっても、死を負かすことのできた者は今までで誰一人としていなかったし、今後もそのようなものは出てこないだろう。人である限り、何人たりとも罪と死からは逃れられないのだから。我々を罪から贖い出されたイエスの力は、エジプトからイスラエルの民を救い出した神の力と同じものなのである。

イスラエルの人々はこう歌っている。「主よ。神々のうち、だれかあなたのような方があるでしょうか。だれがあなたのように、聖であって力強く、たたえられつつ恐れられ、奇しいわざを行なうことができましょうか。」(同11節)彼らがあがめている神は、我々の神でもある。これほどまでに力強く、恐れられるべきお方が、共にいて下さるのであれば、果たして何を悩んだり、心配したりすることがあるのだろうかと思えてしまう。もっともそうと頭では分かっていても、心はその通りに従ってくれないものかもしれないが。

であればこそ、なおさら覚えておきたい。「あなたは彼らを連れて行き、あなたご自身の山に植えられる。主よ。御住まいのためにあなたがお造りになった場所に。」(同17節)神が我々を導いてくださる場所があるということを。