ちからの見せ方

「モーセはイスラエルを葦の海から旅立たせた。彼らはシュルの荒野へ出て行き、三日間、荒野を歩いた。彼らには水が見つからなかった。彼らはマラに来たが、マラの水は苦くて飲むことができなかった。それで、そこはマラと呼ばれた。」(出エジプト記15章22~23節)さてイスラエルの民はエジプトから追われるという不安から解放されて、約束の地を目指して旅を続けていた。では、彼らの歩みは何の問題もなく順風満帆に進んでいたかと言えば、そういうわけでもなかったようだ。エジプトから解放されたことは、確かに良かったのだが……ひとつの問題が解決して安心すると、それまでは気にならなかったこと、小さな問題が気になってしまうという、それが人の常というものであろう。

つい先ごろまでは、エジプトから逃げることだけに必死になっていたイスラエルの民であったから、おそらくよそ見をする余裕もなければ、立ち止って周りの様子をじっくりと伺うようなこともしなかったに違いない。しかし今になって少しばかり心に余裕が出てくると、今度は自分たちの置かれている環境が、厳しいものであることに気付いてしまったようである。なんと彼らには水を見つけることすらできなかった。まぁ、急いでエジプトを後にしたのである。十分な旅の準備などできるわけがなかったろう。しかもナイルで潤されていたエジプトを離れてしまっては、そこは岩と砂ばかりの荒野でしかない。人が住んでいるような場所もなかったであろうし、仮に人が住むような町や村があったとしても、イスラエルの民の全員を受け入れることは、不可能だったに違いない。

彼らは一つの国から逃げてきた一つの民族なのである。何人いたのか正確な数は分からないが、聖書には「徒歩の壮年の男子は約六十万人」とあるから、それに女性と子供、歩くことが困難な老人、また彼らと共に暮らしていた外国人を足しただけの人数はいたはずだ。少なく見積もったとしても百万を下ることはなかっただろう。さらには家畜も連れていたのだから、水や食料が大量に必要になるのは必至だ。ところが彼らの渇きを満たす水がなかったのである。それが彼らにとっての新たな現実であった。

それに気付いた人々は、モーセにこのように訴えた。「私たちは何を飲んだらよいのですか。」(同24節)ここにはそれだけしか書かれていないから、これは私の勝手な想像であるが、おそらく彼らの本音としては「どうしてくれるんだ!せっかくエジプトから追われなくて済むようになったと思ったら、今度は飲み水すらないじゃないか!」という、心配と不平不満のブレンドであったかもしれない。さらに口にこそ出していないが、ひょっとしたら「本当にこれでよかったのか?」という疑いの念もあったとしてもおかしくはない。実際海を渡る前には、荒野で殺されてしまうくらいなら、エジプトに残った方が良かったのではないかと文句を言っていた民ではないか。人の性格とか考え方というものは一昼夜にして変わるものではないから、彼らがそう考えるのもありえないことでもなさそうだ。

ところで今まで見てきたことからも分かるが、エジプトの王は神に対して頑なな態度を取り続けた結果、彼は多くを失ってしまった。結局のところ、彼は神のちからを一方的に見せつけられたに過ぎなかった。もちろん、それが神の思惑でもあったのだから、その通りになったわけだが。さてそれとは少し違うかもしれないが、イスラエルの民も思いの外、頑なな心の持ち主だったのではないか。事あるごとに、モーセに文句ばかりを言っていたではないか。つまりモーセに対して不平を言うことは、彼の後ろについている神のやり方に反対しているも同じことである。

前日は声を上げて神を讃えていたにも関わらず、飲み水がないことに気づくやいなや、文句を言い出すようなイスラエルの民に、神はどのようにされるのだろうか。疑い深いイスラエルの民に、御自身のちからを見せるのだろうか。

さて民の不満を聞いたモーセは神に向かって声を上げた。「すると、主は彼に一本の木を示されたので、モーセはそれを水に投げ入れた。すると、水は甘くなった。」(同25節)神はイスラエルの民が求めているものを与えられた。さらに神はこのように仰られた。「もし、あなたがあなたの神、主の声に確かに聞き従い、主が正しいと見られることを行ない、またその命令に耳を傾け、そのおきてをことごとく守るなら、わたしはエジプトに下したような病気を何一つあなたの上に下さない。わたしは主、あなたをいやす者である。」(同26節)神に従うのであれば、エジプトを襲ったような災いがイスラエルに起きることはないという。そして神は彼らを「十二の水の泉と七十本のなつめやしの木」がある場所へと導いたのである。ようやく彼らは水と食料のある場所で一息つくことができるようになったのだ。

これまで神はエジプトに対して御自身のちからを表すために「災い」という形で不思議なわざを行った。しかしイスラエルの民に対しては、御自身のちからを表すのに「恵み」という形で奇跡を行われたのである。神のちからを体験するのであれば、ぜひとも後者でありたいものだ。そのためにも、神に留まっておこう。