イスラエル人のつぶやき

「イスラエル人の全会衆は、この荒野でモーセとアロンにつぶやいた。イスラエル人は彼らに言った。『エジプトの地で、肉なべのそばにすわり、パンを満ち足りるまで食べていたときに、私たちは主の手にかかって死んでいたらよかったのに。事実、あなたがたは、私たちをこの荒野に連れ出して、この全集団を飢え死にさせようとしているのです。』」(出エジプト記16章2~3節)イスラエルの民は水とナツメヤシが豊富にあるエリムに留まってはいなかった。もしかしたら、彼らのうちにはここで十分ではないか、これ以上旅を続けるのではなくこの辺りで落ち着いてはどうかと、そう思った者もいたかもしれない。しかしそこはまだ彼らが目指すべき、乳と蜜とが流れる神が約束の地ではなかった。それだからこそ、彼らは旅はまだ終わらなかった。

さて旅を続けていると、人々は新たな不満を口にするようになってきた。飲み水に困らなくなったら、今度は食べる物がないと言い出したのだ。もちろん、何もなかったというわけではなかったに違いない。もし本当に何もなかったとしたら、それこそ旅の途中で餓死してしまっていただろう。だとしたら出エジプト記が残るようなこともなかったであろう。おそらくエリムから持ってきたナツメヤシの果実もあっただろうし、道すがら新たにナツメヤシを見つけることもあったかもしれない。もし彼らが海岸沿いを歩くこともあれば、魚を取ることがあったとも考えられよう。もし途中で人の住む土地を通過することがあれば、そこで物々交換で必要な食料を得ることがあったかもしれない。そう考えてみると、彼らが生きていくためには、なんとか十分なだけの食べ物があったのではと推測できる。

しかしイスラエルの人々はそれで満足しなかった。もしかしたら、エリムを出た直後はナツメヤシで満足していたかもしれないが、余裕が出てくるに従って、来る日も来る日も同じものばかりを食べているということを疑問に思うようになってきたのかもしれない。要するに、飽きてしまったということか。エジプト時代の悪かったことを忘れて、肉を食べながら、満腹になるまでパンを食べることのできた日々を懐かしむようになってしまったようだ。いや、懐かしむだけならまだマシだったかもしれない。人々はモーセとアロンに対して恨み節を言うようになってきたうえに、自分たちを餓死させるためにわざわざ連れ出してきたのかと、彼らを疑うようになってきた。それにしてもイスラエルの民のモーセとアロンに対する不信感というのは、これまでも度々見られてきたことではあるが。

その様子をご覧になった神は、モーセにこう言われた。「見よ。わたしはあなたがたのために、パンが天から降るようにする。民は外に出て、毎日、一日分を集めなければならない。これは、彼らがわたしのおしえに従って歩むかどうかを、試みるためである。六日目に、彼らが持って来た物をととのえる場合、日ごとに集める分の二倍とする。」(同4~5節)

人々がパンを満腹になるまで食べたいと言うのであれば、パンが天から降るようにすると、神は言われた。ただし、毎日その日の分を集めなければならず、また六日目には二倍集めないとならないという決まりごとを設けた。神は彼らの腹を満たすためだけに、パンを与えようとしているわけではないようだ。むしろ人々が神の言われたことに従うかどうかを、神は見極めようとしているのである。

神のみことばを聞いたモーセは、人々にこのように伝えた。「夕方には、主があなたがたに食べる肉を与え、朝には満ち足りるほどパンを与えてくださるのは、あなたがたが主に対してつぶやく、そのつぶやきを主が聞かれたからです。いったい私たちは何なのだろうか。あなたがたのつぶやきは、この私たちに対してではなく、主に対してなのです。」(同8節)

つまりイスラエルの民の不平や不満は、モーセやアロンに対して向けられたものではなく、彼らの主である神に対するものであると言っている。そして彼らの不満の声は、神に届いているとも言っている。それにしてもイスラエルの人々の神に対する「口の聞き方」というのは、我々が考えるところの、祈りとは程遠いものである。我々にとっての祈りというのは、神を賛美し、神に感謝し、そして神に望みや願いを伝えるという、新約聖書にある主の祈りに倣ったものであろう。ところが、イスラエルの民のそれは、正直過ぎると言えば、聞こえは良いが、ただの愚痴であり、恨み言でしかなかった。

しかし神は彼らのそのような言葉に耳を傾け、そして彼らが求めるものを与えると言われたのだ。はたして神は、そのようなイスラエルの民に哀れみを覚えたからであろうか。神ご自身はこのように仰っている。「わたしはイスラエル人のつぶやきを聞いた。彼らに告げて言え。『あなたがたは夕暮れには肉を食べ、朝にはパンで満ち足りるであろう。あなたがたはわたしがあなたがたの神、主であることを知るようになる。』」(同12節)

神はイスラエルの民のつぶやきに対して、彼らを信仰を試みるということと、彼らの神がどのようなお方であるかを示すということで答えられようとしているのである。