神の御国は近づく

今年も残すところあとわずかである。ついこの前、新年を迎えたかと思いきや、もう十二月も最後の週である。何とも不思議なことであるが、一日は同じ24時間しかないはずなのに、一年また一年と歳を重ねるにつれて、短くなっているような気がする。いや、短くなっているのではなくて、時間の進み方が徐々に速まっていると言うべきであろうか。いつまでも若いと思っていても、鏡に映る自分の姿を見たり、近くのものが見えにくくなったり、頭皮にかさぶたのようなものができて皮膚科に見てもらったら「残念ですが、老人性イボですね」と苦笑いされたり、本人が思っている(期待している?願っている?)ほどに若くないというのが、私に突きつけられた現実なのである。気持ちの上では、今でも「青年」な気がしなくもないが、それはもしかしたら、まだまだ人として未熟だということの現れなのかもしれない。であるとすれば、私はただただ無駄に歳を重ねているだけなのだろうか。だとしたら、それは残念なことだ。

それにしても、どれほど後悔していようと、どれだけ満足していようと、この一年もあと数日で終わってしまう。世の中としては、今年は今までとは違った、一年であったろう。しかし世の中は世の中、私は私ということで、自らの一年を振り返ってみて、果たして何か成し遂げたであろうかと考えると、あまりめぼしいものが思い浮かばない。一日一日をただなんとはなしに過ごしているうちに、あっと言う間に一年が過ぎ去ってしまったかのようだ。

さて若いうちはあまり考えたこともなかったし、もちろん気持ちの上ではまだまだ若いと思っている私ではあるが、私にもやがて年老いて死ぬ日が訪れるのであろう。まだまだ、まだまだ先のことだろうし、ようやく人生の半分に到達したかどうか、もしくはちょうど折り返したところくらいかと思うこともある。いや、九十歳を過ぎてもまだ生きるつもりなのか、と言われてしまいそうである。しかしながら、こればかりは誰にも知ることができまい。当分の間はこの世界で生かされ続けて、形はいかようであれ、神のために働かなければならないような気もするわけで、だとしたら中途半端で適当な、生ぬるい信仰しか持ち合わせていないような私は、十分な働きをするまで、まだしばらくは生かされ続けられるような気がする。もちろん確たる根拠があるわけではない。なんとなくそう思っているだけだが。

さて視点を今のこの地上での人生に置くと、死ぬのは遠い先のことだと思うと、健康で過ごせることを感謝に思う。ところでちょっとばかり視点を変えて、やがて来るべき神の御国を中心に据えてみると違うものが見えてくるのではないだろうか。それこそ神の御国から見ると、私はずいぶんと遠くにいることになるのかもしれない。しかしこの世界で一日を過ごすことは一日寿命を縮めることであり、すなわち神の御国に一日分だけ近づくことになるのだろう。

この一年を振り返って見た時に、何を成し遂げたか、何に挫折したかなどと、さまざまなことを考えるかもしれない。もしかしたら私のように気付いたときには、一年が経っていたということもあるかもしれない。この一年、何もせずに無駄に過ごしてしまったと思うかもしれない。しかし、神の御国が信仰を持って生きる者の最終目的地であることを考えると、私たちの生きているなかで、無駄な一日というのはないだろうから、無意味に日々を過ごしたということにはならないだろう。なぜなら一日一日を生きること自体が、神の御国に近づくための一歩一歩なのであるから。

一日一日をどのように過ごそうとも、無駄な日がないのであれば、物は考えようで私たちのすることには無駄なことは何一つとしてないということかもしれない。私たちのなす事、もしくはなさなかった事、それぞれに何らかの意味があるのかもしれない。もちろん、それが何であるのかまでは、私には分からないし、それは人それぞれであろう。この一年の間に私がしたこと、成し遂げたこと、もしくはしなかったこと、できなかったことを思い出してみると、果たして何が出てくるだろうか。すべてのことや、細かいことを思い出すことはできないが、確かなことは、去年の年末よりも今日は一年分だけ神の御国に近づいたということである。自分がどこに向かっているかを意識すれば、一日一日が大切であることに気付くだろう。だから一日一日を感謝して過ごすよう心掛けたい。私たちには無駄な、無意味な一日ないのだから。

「何も思い煩わないで、あらゆるばあいに、感謝をもってささげる祈りと願いによって、あなたがたの願い事を神に知っていただきなさい。そうすれば、人のすべての考えにまさる神の平安が、あなたがたの心と思いをキリスト・イエスにあって守ってくれます。」(ピリピ人への手紙4章6~7節)