野のゆり

イエスはこのようにも言っている。「なぜ着物のことで心配するのですか。野のゆりがどうして育つのか、よくわきまえなさい。働きもせず、紡ぎもしません。」(マタイの福音6章28節)

着る物で心配とは、何のことだろう。文字通り着る物がなくてどうしようかと気に病むことだろうか。着る物がないとどうなるだろう。もっとも温順な土地であったり、暖かな季節であったら、着る物がなかったらどうしようかなどと、心配するようなことはないに違いない。エアコンが無い真夏の我が家や、赤道付近の土地では、それこそすっぽんぽんで過したくなるくらいかもしれない。但し、屋外でそれをやってしまうと日に焼けたりしてしまい、後で泣きを見ることになる。自慢じゃないが、それに近い経験をしたことがあるので、これは確かなことである。あれは日焼けというよりもヤケドに近いものであった。若気の至りとでも言ってごまかしておこう。ところがその反対に寒いところだと、着る物がなかったらどうなるか。以前テレビで寒さに耐性があるという男性が、極寒の北欧を上半身裸でかつ裸足という格好で雪上マラソンに挑戦したとい番組を見たことがあるが、ゴール直前にはつま先が凍死に等しい状態にまでなってしまったそうだ。本来であれば一度凍死した器官は回復しないことがほとんどらしいのだが、その男性は完全に回復したそうである。いわゆる超人と呼ばれている人でさえ極寒の中ではそのような状態に陥ってしまうのであるから、一般人が何も身につけずに寒さの中に放り出されたら、それこそ凍え死んでしまうのは時間の問題であろう。

しかし前回も見たように、神は人の肉体もいのちも守って下さり、必要なものをすべて与えて下さる方なのである。であるから、なるほど、心配することがないと言われれば、そうかもしれない。鳥のように人間以外の動物が、働かずとも養われているように、神は植物さえも面倒を見ているではないか。野生の樹木や植物が枯れないのは、雨が地を潤し、他の生き物が死ぬことで養分になっているからではないか。そこに植物の自らの意志が働いているわけではない。それが自然の摂理であると言えば、そうかもしれないが、その摂理も突き詰めていくと、天地万物を創造された神にたどり着くのではないだろうか。

それはそうと、ここにはそれ以上の意味があるのではないかと私は思うのだ。続く箇所を読むと、イエスがこう言っているところに目が留まるのだ。「栄華を窮めたソロモンでさえ、このような花の一つほどにも着飾ってはいませんでした。」(29節)

人はなぜ着飾るのだろうか、それは自分自身を少しでも良く見せようということだろう。他人に不快感を与えないためにも身ぎれいにしたり、場の雰囲気を考えて適切な服装をするのは必要なことである。しかし必要以上に華美に自身を飾る必要があるのだろうか。キリストはここで、ソロモン王と野に咲くゆりとを比較している。キリストでも認めるほどに栄華を極めたソロモン王でさえも、一輪の花の美しさにはかなわないというのだ。

そのような花の美しさはどこから来るのだろうか。「きょうあっても、あすは炉に投げ込まれる野の草さえ、神はこれほどに装ってくださる……」(30節)

美しさというものは、これもまたいのちと同じように神が与えて下さるものなのである。さらにイエスは続けて言っている。「……ましてあなたがたに、よくしてくださらないわけがありましょうか。」(同)

人のいのちと花のいのち、比較することすら意味がないほどの違いである。花のいのちとは実に短い。美しいからと、人に手折られたりしようものなら、花のいのちはそこで終わりである。手足もない花にはどうすることもできない。そのような存在でさえ、神は気にかけているのだ。それなら御自身の姿に似せて作られた人のことを、神はどう思っておられるのだろうか。神が創造された他の動物や植物よりも気にかけて下さっても不思議ではないだろう。いや、むしろ神から他の何ものよりも大事に思われて当然であろう。キリストは心配する必要はないというが、その一番の根拠がここにある。

神が自ら創造したものに対して良くしないわけがない。ましてや神の姿に似せて造られた人間のために最善を願うのは、神として当然であろう。