鳥が飛ぶのをやめたなら

キリストは心配するなと言う。もちろん今更言われるまでもなく、そんなことは分かっているのだけれども、人は心配してしまうものである。しかしなぜ、キリストは心配するなと言っているのだろうか。イエスはその理由をこう説明している。「空の鳥を見なさい。種蒔きもせず、刈り入れもせず、倉に納めることもしません。けれども、あなたがたの天の父がこれを養っていてくださるのです。あなたがたは、鳥よりも、もっとすぐれたものではありませんか。」(マタイの福音6章26節)

私たちは自分のいのちや自分の健康のことをあれこれ心配しなくても良いのである。なぜなら、天の父、すなわち神が私たちを養って下さる、つまり私たちが日々生活する上で必要なものを備えて下さるのである。キリストが言うように、当然のことながら空を飛ぶ鳥は、自ら手を(翼を?)泥で汚して食料を得るために汗を流して苦労する必要はないのである。ただそこにある木の実をついばむか、虫を捕らえるか、それだけなのである。何も鳥に限ったことではないだろう。海の中を泳ぐ魚も、草原を駆ける動物も、自ら食料を生み出すために苦労することはないのである。それらの食料となるものは、自然に存在し、それを手に入れさえすれば良いのである。人間に飼われている動物でも似たものだ。なぜなら飼い主である人間がそれらに餌を与えるのだから。人間と他の動物との違いを挙げるとすれば、人間は生産をするが動物は生産をしないということだろうか。

だからと言って、文字通り動物を真似て、生産することを諦め、身の回りにあるものに手を出すのは間違っているだろう。何も動物の次元にまで自らを貶めることはあるまい。それは心配することを辞めたというよりも、単に人であることを辞めたようなもので、人にいのちを与えた神に失礼である。何と言っても神は御自身に似せて人を創造されたとあるではないか、そこが人間と動物の一番の違いである。人には知恵と考える力が備わっている。それを生かして何かを生み出すのは神の御心にかなったことであろう。

キリストが言わんとしていることは、神が人の必要を満たして下さるのだから、心配する必要がないということであって、種を蒔く必要も収穫する必要もない、すなわち何も働かずともお構いなしということではないだろう。

それでは人はどうしたらよいのだろうか、人にとって必要なこととは何であろうか。それは神が備えて下さっているものに手を伸ばすこと、それを手にすることなのではないか。すでに書いたように、神は人に知恵を備えて下さったのだが、それだけではないだろう。各人に見合った才能なり能力なりを授けて下さっているのではないだろうか。神が養って下さるからと言って、私たちは黙って座して待っているだけではダメなのである。もし鳥が空を飛ばずに巣の中でじっとしていたらどうなるだろうか。遅かれ早かれ飢え死にしてしまうに違いない。その一匹だけが飢えてしまうのならまだしも、もしもそれが親鳥であったなら、雛鳥までもが道連れになってしまうことだろう。神が鳥に備えられたのは餌だけではない。神は鳥に空を飛ぶ能力(もちろんダチョウやペンギンのように飛ばない鳥には走る能力や泳ぐ能力)や、餌を捕らえるためのくちばしを与えているではないか。

人はとかく心配しやすい生き物である。明日の天気はどうなるだろうか、仕事は期限通りに終わるだろうか、流行りのインフルエンザにかかったりしないだろうか、来月はどうやってやりくりしていこうか……などと数え上げたら際限がないだろう。神がそれらの心配を直接取り去ることは滅多にないだろうが、神はそれらの問題にどう対処したら良いのかを考えるだけの知恵を人にすでに与えられたのではないだろうか。それをどう生かすかで結果が変わってくるのだ。確かなことは、ただ心配に身を任せているだけでは何も状況は変わらないということである。

しかし何より神が備えて下さったもののうちで一番価値あるものは、キリストの働きを通して私たちに備えられた、罪からの解放、罪の結果としての死からの救い、そして死から救われたことの結果としての永遠のいのちであろう。自分の意志でそれらに手を伸ばして、しっかりとつかみ取るのであれば、それらはつかみ取った人のものになるのだ。しかし黙って見ているだけでは、いつまでもそれは自分のものにはならない。神に見放されたと嘆いているだけでは、いつまで経っても祝福を受けることはないだろう。