心配しない

人は二人の主人に仕えることはできないとキリストは言う。神を選びながら、富を選ぶことはできないし、またその反対に、富を選びながら、神を選ぶこともできない。もちろん私のような欲の深い者は、その両方を望んだりもするのだが、残念ながらそれは無理なことなのである。悪くすると、そのどちらも得られないということになりかねない。というわけで、あまり欲を出すのは考え物であろう。

しかし欲を出すとか出さないとかの問題だけではないようだ。人間、欲がないからと言って、それだけで神に目を向けることが出来るかと言えば、そういうものでもないだろう。信仰者でもあるし、欲深でもないという、私からしたら何とも理想的な存在に思われるような人々も世の中にはいるだろう。いやいやそうではなくて、もしかしたら私のように信仰と欲深を併せ持ち、常に自分のうちで両者が葛藤している者の方が少数派だろうとも思う。しかし欲がないというだけで、信仰者には何の悩みも問題もないということになるだろうか。残念ながらそのようなことはない。どれだけ信仰が篤くとも、やはり悩みだの心配だのというものはついてまわるものだろう。

やっかいなことは、どのような悩みであるかという、その悩みの実態とか内容というよりも、悩みとか不安を抱えているという事実の方ではないだろうか。人間誰しも、それこそ信仰を持っていようと持っていまいと、多かれ少なかれ悩んだり心配したりすることがあるだろう。今まで私が生きてきたなかで、悩みが全くない、何の問題もないと言う人と出会ったことがない。そして今後もそのような人に出会うことはないだろうとも思う。ところでなぜ悩みを持つことがやっかいなのだろうか。誰もが悩みを持つのであれば、それは当然のこととして素直に諦めるべきかもしれない。確かにそうとも言えようが、悩みや不安から逃げ出すことは何の解決にもならないだろう。例え逃げ出したとしても、姿を変えてそれらのものは逃げるものを追い続けることだろう。問題を持つこと、それ自体は問題ではないだろう。問題なのは、その問題にばかり目を向けしまうことだ。

キリストは言っている。「自分のいのちのことで、何を食べようか、何を飲もうかと心配したり、また、からだのことで、何を着ようかと心配したりしてはいけません。」(マタイの福音6章25節)

何を食べるか、何を飲むか、何を着るかなどは、どれも日常の些細なことである。しかし人間というのは日頃の小さなことでも一旦気にしはじめると、なかなか止まらなくなってしまうのではないか。冷静に考えると、今夜何を食べるかなどと気にするほどのことではあるまい。もっとも食べるものが何もないという程に切羽詰まったているというのであれば、それなら心配せずにはいられないかもしれないが、食べるものがあるのに心配するというのは、考えようによっては心配し過ぎなのかもしれない。生きていくために必要なものがあるなら、そこで一旦満足しておくのが良いのだろう。

しかしいくらなんでも何を食べるかでそこまで悩む人はいないだろうが、些細なことでも気になると止まないのだから、さらに大きな問題に出くわそうものなら、人の心配とは際限なく広がりそうなものである。とかく人というのは、物事を悪い方へ悪い方へと考えてしまいやすいものではないか。ひとたび何かが心に引っ掛かると、喉に刺さった魚の骨のように、そのことばかりが気になってしまい、他のことに身が入らなくなってしまうのである。まさしく心配事が人の主人になってしまうようなものだ。富をはじめとした世俗の誘惑に仕えないでいることができたとしても、人は自分では気付かないうちに、自らの不安や悩みに降参してしまうことがあるのではないだろうか。「いのちは食べ物よりたいせつなもの、からだは着物よりたいせつなものではありませんか。」(25節)

心配の種は数多あるだろうが、心配する必要はないのだ。人の不安をすべて知っておられ、人の祈りを聞き流すことのない神を主と仰ぐのであれば、神は私たちのいのちを守り、からだが必要とするものを与えて下さるであろう。