健康な目

私は目が悪い。近眼であるし、少々乱視も混ざっている。まったくのところ、眼鏡なしではまともに物を見ることができないくらいだ。眼鏡なしで一番困るのは車の運転である。出先で万が一のことがあって、眼鏡が壊れてしまってはそれこそ家に帰ることすらままならなくなってしまうので、車の中には常に予備の眼鏡を常備しているくらいだ。さて私の目に関する問題は近眼というだけではない、さらに色弱も加わっているのだ。色弱でない人のために簡単に色弱がどのようなものかを説明すると、微妙な色の違いが分からないし、暗いところだと色が分からないことだろうか。例えば日が暮れてしまうと色の判断が付かなくなってしまうという具合だ。もちろん、テレビや信号などのような発光体の色は難なく判別することができるのであるが、薄暗い明りで照らされた物の色は分からないことの方が多い。よく色弱の検査で、小さな丸いタイルでつくられたモザイクのようなものから、数字を判別する方法があるけれども、明らかに色が違うのでない限りは、私はあれから数字を読み取ることができないのである。とは言っても、日常の生活で困ることが何一つないのは幸いである。世の中のほとんどの物は色の区別がはっきりしている。ただ黒の靴下と紺の靴下が並んでいると、どっちがどっちだか分からなくなってしまうのは、ちょっと不便である。見れば見るほど悩んでしまうという始末だ。

近眼については眼鏡を掛ければ済むことなのであるが、色弱については有効な手だてというのはないものだろうか。近視と色弱の深刻さというか、日常生活への影響を考えると、近視については治した方がよいからだろう。色弱はさほど困るものでもないということだろうか。確かにそう言われてしまうと反論のしようもないのであるが。

それはそうと、目というのは外の景色を、それを見る人に伝えるための器官である。ところでイエスのことばに従うと、目というのはそれ以外にも、人の外側を照らすこともできるようだ。「からだのあかりは目です。」(マタイの福音6章22節)

もちろん字義通りのことではないはずだ。目があかりになるのだったら、自分で暗い夜道を照らすことができるから、それこそ街灯など必要あるまい。しかしそんな凄い目を持った人はいないのが現実である。イエスは続けて言っている。「もしあなたの目が健全なら、あなたの全身が明るいが、もし、目が悪ければ、あなたの全身が暗いでしょう。」(22~23節)

振り返ってみれば、世界を照らす光になりなさいとイエスは言っていたではないか。(マタイ5章)それを考えると、何やら似たようなことを言っているように思える。つまり私たちの目、私たちのからだのあかりが健全、健康、すなわち問題のない状態にあれば、私たちのすべてが明るい光となり、イエスが願うように世を照らすことができるのではないだろうか。そして私たちが世を照らすことができるのであれば、その明りのゆえに人々は神を知ることができるのだろう。ところがその反面、私たちの目に何らかの問題があるとすれば、私たちの明りは消えてしまい、暗くなってしまうのだ。もしそうなってしまえば、私たちは人に神のことを知らせるどころか、むしろ人々を迷わせてしまい、あらぬ方向へ、まかり間違えれば正反対へと導いてしまうことにもなりかねない。そうならないことを望むのであれば、私たちはからだのあかりである目を常に健康な状態に保っておかねばならないだろう。

言うなれば私たちの目は、外の世界と心の内側をつないでいる扉のようなものかもしれない。私たちの目を通して、外の景色が脳に投影されることではじめて、私たちは色々と感じたり考えたりするのではないか。その一方で、目は私たちの内側にあるものを外に投影するではないだろうか。人は悲しむと目から涙を流し、憤りを覚えると目つきが厳しくなり、楽しいことをすると目が笑う。目は口ほどに物を言う……いや、もしかしたら口以上に正直かもしれない。すべてがそうではないだろうが、私たちが何を見るかで、私たちの目の状態が決まってくるのではないだろうか。私たちは直接神を見ることはできない。しかし神の働きを様々なものに見いだすことはできるのではないだろうか。例えば美しい自然を見ることで、天地万物を創造された神の姿を間接的に見ることができるのではないか。間接的であれ神を見ることで、私たちは神が現実の存在であることを知ることができるのだ。そして神を知ることによって、私たちの心にある悲しみ、憤り、不安といったものは払拭されるだろう。そうすることで、私たちの目、すなわちからだのあかりは健康を取り戻し、明るく周囲を照らすことができるようになるのではないだろうか。

神に目を向けて日々過したいものである。それは自分のためだけでなく、人のためにもなるだろう。