いつも通りの顔で

断食とは無縁の私であるから、そう思うのかも知れないが、断食というのは何とも辛くて苦しいものであるように思えてならない。もし私が心を入れ替えて信仰篤い人間になっていざ断食をしたとしたらどうなるか。もしかしたら、顔全体に「腹減った。飯食わせろ」と書いてあるようなツラをするかもしれない。人が何かを食べていたら、恨めしそうにヨダレを垂らしながら食い付くように見つめてしまうかもしない。いや、信仰篤い人間はそんなに卑しい姿は見せないかもしれない。でも、今の私が断食などしようものなら、威勢のない顔をして、食事をしている人を見つめてしまうこと間違いない。

しかしながら仮にそれが自然な反応であったとしても、好ましいものでもない。イエスはこう言っている。「やつれた顔つきをしてはいけません。彼らは、断食していることが人に見えるようにと、その顔をやつすのです。」(マタイの福音6章16節)

もちろんこれは偽善者たち、すなわちイエスの時代に生きた律法学者や宗教家たちのことを示して言っていることである。しかし断食をしているとなれば、何もわざわざそうしなくとも、やつれた顔になってしまうのではないだろうか。私などは断食というわけでなくとも、昼飯抜きという危機的状況に遭遇したら自然にやつれた顔になってしまうだろう。もちろんそれは断食をしているとはまったく別の次元のことなので、人に見せる見せないとは関係のない話である。しかしこちらがやつれた顔をしていたら、それを見る人間としては、はっきり言って嬉しいものではないだろう。仮に誰かがそんな顔をしていたら、私などは「この欠食児童が、ちゃんと飯を食わせてもらえ」とつぶやいてしまうことだろう。自分の体験している不利な状況を人に見せるというのは、概して相手の同情を買うよりも、不興を買うことの方が多いに違いない。ただの空腹からやつれた顔をしていても相手を不快にさせるのがせいぜいであろう。ましてや自分から進んで断食をしているのにやつれた顔を見せつけられたとしたら、果たしてどう感じるだろうか。おそらく何のためにそこまでして断食をしているのだろうかと不思議に思われるだろうし、そんな顔を見せるくらいなら断食するのは止してくれと言われてしまうかもしれない。何事も否定的に理解されてしまうのはもったいない。断食という形で神との関係をより堅固なものにしようと考えているのであれば、なおのことである。

ところでイエスはこう言っている。「自分の頭に油を塗り、顔を洗いなさい。」(17節)

端的に言うと、自分が何をしているのかを人に悟られるないようにしなさいということだろう。すなわち断食をしていることを隠せ、と。空腹で苦労している姿を見せるのではなく、むしろ反対に、髪を整え顔をしゃきっとさせ、何事もないかのように普段通り振る舞いなさいということだろうか。そもそも自分が断食しているかどうかは人には関係のないことである。人のために断食をしているわけではないからだ。もっとも断食の理由が人のためということはあるかもしれないが、だとしても断食という行為は自発的なものであろう。人に頼まれたからという理由で断食をする者はいないだろう。もしいるとしたら、それは断食の意味を取り違えているとしか言いようがない。それこそ人に見せるための断食をすることになり、偽善者の仲間入りだ。自分が神と会話をする時間を持ちたいから、神にどうしても伝えたい祈りがあるから……そのような動機から信仰者は断食をするからだ。

しかし断食のきっかけがいかに純粋なものであったとしても、やつれた顔を人に見られたらどうだろうか。なぜ信仰者なのに浮かぬ顔をしているのだろうかと思われてしまったら、むしろ信仰者としての魅力を失ってしまい証しにならないだろう。人は神ではないから、私たちの心の内側までを見通すことはできない。人が見るのは私たちの外見であり顔色である。人は見かけによらない、とは言うが、良くも悪くも人は他人を見かけで判断することがほとんどであろう。であるから、断食をするときも、それを顔に出すのではなく、いつもと何ら変わることのないように、信仰者として前向きな姿勢を示していくことが望ましいのだろう。信仰者は世の光、地の塩であるはずだ。それが打ち沈んだ顔をしていたら、果たして誰が信仰を持ちたいと思うだろうか。