断食する信仰

私は食べることが大好きである。おいしいものが大好きである。だからと言って、自分のことを美食家と呼ぼうとは思わない。美食家がコンビニのおにぎりや、肉屋のコロッケごときで満足することはないだろう。そんな私であるから、はっきり言って自慢にはならないだろうけど、断食とは無縁である。もちろん人によっては断食をすることもあるのかもしれない。実際のところ断食祈祷院というものも存在しているので、現に断食する人もいるのだ。もちろん、イスラム教のラマダンではない。キリストを信仰しているクリスチャンのことである。

それでは信仰者はなぜ断食を行うのだろうか。信仰者ではあっても今までに断食をしたこともなければ、今後も断食をすることはないだろうと思っている私なりに考えてみた。結論から言ってしまうと、私が断食をしないのは、ただ単純に私が食べることを至上の喜びと考えているからでもないし、断食をするだけの理由がないということでもない。改めて省みるに、私の信仰が篤くもなければ熱くもないという、生温くって中途半端なものだからかもしれない。

私のような半端者は例外として、信仰者はなぜ食を断つのか。まずひとつの理由として挙げられるのは、食事をすることよりも、神に祈ることのために時間を取りたいからであろう。もちろん食事を楽しむこと自体は罪ではない。むしろ備えられた食卓を感謝し、食事を楽しむことは神に喜ばれことと言っても言い過ぎにはならないだろう。全ての良いものは神から与えられるということで、食事もまた然り。そうであればこそ、素直に享受するのは当然であるし、却ってそうしない方が如何なものだろうかと思われる。。

とは言っても、それでも人は祈りを選ぶのである。それだけ神と対話する時間を持ちたいのだろうし、それほどまでに思いが強いに違いない。

ところで一日は24時間もある(しかない?)ではないか。何も食事の時間を犠牲にしてまで祈らなくてもよいのではないかとも思うのだ。たしかにそうかもしれない。しかし祈るだけの時間を毎日確保することが果たしてできるだろうか。その気になればできないことではないかもしれない。とは言うものの、私もそうであるが、人は概して忙しいものであり、常に何かに追い立てられながら生きているものだ。ところがどんなに忙しくとも、人間飲まず食わずでは生きて行けない。あのバプテスマのヨハネでさえイナゴと蜂蜜を食していたではないか。だから人はどこかしらで食べるための時間を作らねばならない。この食事の時間こそが、誰もが必ず持つことのできる時間なのだ。その時間を祈りに費やすことができれば、祈るための時間は間違いなく確保できるということになる。祈る時間がないと言うのは、神に対する言い訳というよりも、祈らずにいる自分自身に対する逃げ口上でしかないのではないだろうか。

もうひとつの理由は、今時の言葉を借りると、神に対して自分が祈り求めていることの本気度を示すことであろう。とは言っても、神は私たちの心をすでに知っておられるはずだ。今さら態度で示すというのは、ちょっと何かが違う気がする。そう考えてみると、断食をすることで神に自らの真剣さ見せるというよりも、自身に対する戒めというか励ましとしての効き目があるのではないだろうか。如何せん人の心は動じやすいものである。だから何か礎になるものが必要なのだ。それは神であり、またその神に対する信心であり、そしてその信心に基づいた行為であろう。自分が何を求めているのか。その意志を確かなものとして維持するというのは、断食という行為を通して得られるのかもしれない。

さらにイエスはこう言っている。「断食するときには、偽善者たちのようにやつれた顔つきをしてはいけません。彼らは、断食していることが人に見えるようにと、その顔をやつすのです。」(マタイの福音6章16節)

断食とは、言うなれば人と神とが強く結びつくために、人が実践することのできる手段のひとつであって、人と神との極めて個人的なものなのである。であるから、それは決して自分の清さや正しさや信仰を他人に見せるためのパフォーマンスであってはならないのだ。