救い主

もうすぐでクリスマスなのだけれども、いまひとつクリスマスな気がしない。考えてみるに、クリスマスは12月ということもあって、寒いという印象が実に強い。ところがどうしたことか、今年は12月に入っても暖かな日が多く、クリスマスがどうこう言う以前に、まず冬になったという気がなかなかしなかった。冬にならないのであれば、クリスマスになるわけがないという、何ともわがままな感覚でしかないのだが、おかげで今年はなかなかクリスマスがやってくるという気分にはなれないでいた。幸いにも、ここ一週間ほどで気温がぐっと下がるようになってきたので、ようやく冬らしくなってきた。今になってクリスマスがやってくるような気にもなってくるのだ。まぁ、こんな私であるから、おそらく南半球で生活することはできまい。そんな私には想像もできないことだが、南半球で生まれ育った人々にとっては寒いクリスマスというのが考えられないのだろう。それはそれでおもしろい。

さて寒かろうが暑かろうがクリスマスは必ずやってくるのだ。果たしてイエス・キリストが12月25日にお生まれになったのかどうかは、実際のところ私には分からない。そもそも現行の太陽暦(グレゴリオ暦)が正式に使われるようになったのはイエス・キリストが誕生してから相当時間が経ってからからである。ちなみに日本がこれを採用したのは明治に入ってからのことだ。長い年月を経たうえに、日付の数え方も変化してきたことを考えれば、イエス・キリストが何年何月何日に誕生したのかをピンポイントで言える人なんていないだろう。

しかしイエス・キリストがいつ誕生したのか正確に分からなかったとしても、クリスマスは現にこうして存在するのだ。つまりイエス・キリストがこの世にやってきたという事実に変りはないのである。キリストが誕生したことを記憶し、それを祝うのがクリスマスということである。信じる信じない、受け入れる受け入れないは別としても、そのことに異論を唱える人はおそらくいないだろう。クリスマスの主役とは、イエス・キリストなのである。

それではイエス・キリストとは一体どのようなお方なのであろうか。とは言っても、細かく説明するのはおそらく私が一生掛かっても無理だと思うので、聖書からひとつ引用させてもらうとしよう。「きょうダビデの町で、あなたがたのために、救い主がお生まれになりました。この方こそ主キリストです。」(ルカの福音2章11節)

キリストは救い主としてこの世に誕生されたのである。すなわち生まれながらにして、どのような者になるのか決まっていたのだ。年齢を重ねるに従って、その進路を模索しつつ歩むのではなく、すでにどこに向って進むのかが定まっていたのだ。否定的に考えるのであれば選択の自由がなかったとも言えるし、前向きに捉えるのであれば未来が分かっている安心とも言えよう。もし私たちの人生がどうなるか決まっているとしたらどうだろうか。将来成功し、富と名声を得ることが出来ると言われたら、間違いなく期待してしまうだろうし、早くそれが現実にならないかと首を長くして待つはずだ。反面、将来すべてを失い、信頼していた人々に背を向けられ、挙げ句の果てに身に覚えのない罪のために捕らえられ罰せられてしまうことになる言われたとしたら、私たちはどう思うだろうか。そんなことはない、それは何かの間違いである、と否定することだろう。そのようなことは素直に認められるわけでもないし、そうならないことを願うだろう。

救い主になることが定められていたとは、果たしてどのようなことだろうか。今でこそキリストは救い主であると私たちは言うが、何から私たちを救って下さったのかは、やはり聖書に書いてある。「マリヤは男の子を産みます。その名をイエスとつけなさい。この方こそ、ご自分の民をその罪から救ってくださる方です。」(マタイの福音1章21節)

キリストはどのようにして私たちを罪から救って下さったのか。それは私たちの罪を負って、すなわち私たちが罪の故に罰せられるべきところを、身代わりとなって下さったのだ。

キリストがこの世界に生まれた理由、それは十字架の上で人々の罪を負うためであったとも言えよう。救い主の誕生を祝うということでは喜ばしい時である。しかし救い主としてキリストがこの世で果たす役割の重さを忘れないでおきたい。