しかし

罪を憎んで人を憎まず、とは言うけれども、確かにその通りであろう。人の悪を憎むのは仕方がないにしても、それを理由にいつまでも人に恨みを抱くのはいかがなものだろうか。キリストも言っているではないか。私たちが人の罪を赦すのであれば、神は必ず私たちの罪をも赦して下さると。これは確かな神の約束なのである。だから人を赦すことは、私たちにとって不都合なことではないのだ。

しかしその一方で、もし私たちが人を赦さなければどうなるのだろうか。キリストはこう教えている。「しかし、人を赦さないなら、あなたがたの父もあなたがたの罪をお赦しになりません。」(マタイの福音6章15節)

つまりどういうことかというと……などと説明するまでもあるまい。キリストは何も難しいことを言っているのではない。至極単純なことである。私たちが人の悪を赦すのであれば、私たちの悪も赦される。私たちが人の悪を赦さないのであれば、私たちの悪も赦されない。その中間というものは存在しない。人の罪を赦したにもかかわらず、私たちの罪が赦されないということもないし、私たちが人の罪を赦さなかったにもかかわらず、私たちの罪が赦されるということはない。

なぜ哀れみ深いと言われている神が、ここまで厳しいことを言っているのだろうか。それは神は哀れみ深いと同時に、義を重んじる神であることを忘れてはなるまい。神は正しいことを好まれる、いや、それでもまだ十分ではないかもしれない。ややキツイ言い方になってしまうかもしれないが、神は正しいことのみを受け入れる存在なのである。罪は当然受け入れないし、中途半端なことも受け入れない。神の前では白黒をはっきりさせないといけないのである。そのような神のことを知った上で、イエスはこうのように教えているのだろう。

しかし、である。神は白黒はっきりしているのだが、果たして人は白黒はっきりしているだろうかというと、残念ながら白黒入り交じった灰色であることが多いだろう。その行いも考えも、善悪入り交じった実に絶妙な色合いなのである。人がひとりで生きているのなら別かもしれないが、人は必ずや他の人なり集団なりと接する機会がある。そして人が交わるところでは必ずや意図したものであれ、意図しないものであれ何らかの確執やら争いが起こるものだ。十人十色と言うように、人にはそれぞれの価値基準があるから、それは避けることができない。そうなったときにどうするかである。互いに妥協点を見出すか。それならそれでいい。それとも互いに譲らずに、強硬手段に訴え出るか。それもまた可能性としてはあるだろう。いがみ合うことは、いつの世でも至る所で起きているものであろう。

そのようになったとして、互いに相手の過ちを赦すことができれば一番良いのだろうが、果たしてどうだろうか。人というのは片意地を張りやすいもので、相手を責めることはできても、なかなか赦すことはできないものだ。なぜなら赦すということは、相手の非を咎めずに、それを無かったかのようにすることだからだ。人の過ちを簡単に赦せるのであれば、そもそも最初から争いごとは起こらないだろう。

ところがイエスのことばに従うのであれば、私たちが人を赦さないのであれば、神も私たちを赦さないということになる。また神が私たちの罪を赦さないのであれば、私たちはいつまでも罪を背負ったままになってしまうのだ。そして残念なことではあるが、罪の結果は死である。ということは、簡単に言ってしまうと、私たちが人の罪を赦さないのであれば、私たちは死んでしまうということだ。もちろん、人は生きている限りいつかは死ぬのであるが、ここでいう死とは神との隔絶という意味での霊的な死である。などと考えてしまうと絶望してしまいそうである。

しかし何がどうあるべきかとばかり考えても仕方ない。改めて思い出してみよう、何より神は哀れみ深いお方である。私たちが人を赦さないからといって、それだけで私たちを諦めることはない。神がまず初めに私たちの罪を赦して下さったのだ。私たちがどうしたから、神がどうしてくれる、ではない。神がどうしたから、私たちはどうするか、である。神は私たちを赦してくれた。さて私たちはどうするであろうか。