もしも

祈り方を示した後も、イエスの話はまだ終わらない。「もし人の罪を赦すなら、あなたがたの天の父もあなたがたを赦してくださいます。」(マタイの福音6章14節)

振り返ってみれば、イエスは祈りの中で似たようなことを言っていたではないか。もちろん、これは神と取引をするという意味ではない。私たちがこうすれば、神はああしてくれる、というものでもないし、私たちがこうしたから、神がああしてくれたというものでもない。今していることも、過去にしたことも、将来することも、いかなるものも神の思いを変えることはできない。神は、人の行動や言動によって、左右されてしまうような存在ではない。見ようによっては、神というのは冷徹な存在に思えるかも知れないが、決められたことは必ず行う、御自身の意志に忠実な神とも言えよう。

そう考えてみると、私たちが人の罪を赦すのであれば、神も私たちの罪を赦してくれる、というこのイエスのことばは、条件ではなく神の約束と捉えることができるのではないだろうか。すなわち私たちが人を赦しさえすれば、神は私たちの過ちをも必ず赦してくれるということになる。もしかしたら赦してくれるかもしれない、などという曖昧なものではない。神が赦してくださるとイエスが言うのであれば、それを疑う必要などない。日が暮れて夜が来て、日が昇り朝が来るように確実なものである。

さて改めて人の罪を赦すとはどのようなことであろうか。それを考えるのであれば、まず罪とは何であろうか。罪とは、過ちとも言い変えることができるが、過ちにも二つあるのではないだろうか。ひとつは意図しないもの、つまり悪気はないのにうっかりと人に対して行ってしまうものである。例えば、混んだ電車の中で隣の人の足を踏んでしまったとか、子供が取っておいたお菓子を食べてしまうとか、そう言った類の過ちである。そしてもうひとつは、悪意に満ちた行いである。他人を困らせてやろうとか、人が憎らしいとか、自分にとって都合が悪いからとか、そのような理由で人に対して何かをすることである。人の成功が羨ましいから根も葉もないことを言い立てるとか、財布に金がないことを知っていて散々飲み食いして代金を踏み倒すとか……もちろん、私はそんなことはしないけど……これもまた過ちである。

ではイエスがここで言う「人の罪」というのは、いずれの過ちであろうか。悪いことをしてしまったという意味合いで考えると、どちらともとれるような気がしなくもない。ところで英語の聖書でこの箇所を読むと”trespass”と書いてあるものがあるが、これは日本語で言うならば、入ってはならない場所に入る、越えてはならない一線を越えるということになる。さすがにこのようなことは意図せずにできることではあるまい。そう考えていくと、人の罪というのは、人の意図せぬ失敗ではなく、人が意図する悪事ということになるだろう。イエスが言わんとするのは、私たちが人の悪事を赦すのであれば、ということであろう。

ところがここまで考えると、この罪というのが、失敗という意味の過ちであったらどんなにか良いだろうか、と私などは思わずにはいられないのだ。例えば、誰かが電車で私の足を踏んだとしよう。相手が「スミマセン!」と言えば、私は「いえいえ~」と簡単に赦すことができる。仮に相手が謝らなかったとしても「しょうがねーなー」と思いながら、電車を降りる頃には別のことを考えており忘れてしまうだろう。ところが誰かが電車の中で私の財布を盗んだとしたら、そう簡単には腹の虫が治まらないに違いない。後で誰かが「ゴメン」と言っても「ゴメンで済んだら警察いらねーよ」と思うことだろう。

人というのは、他人の失敗に関しては寛容になれるようだが、悪事については実に厳しいものである。相手のうちに悪意を見いだすと、自然と敵意が湧いてくるものなのかもしれない。敵意が敵意のうちはまだ良いかも知れないが、これが悪意へと変わることもあるから、実に厄介である。しかし人の罪を赦すことの報いは大きい。私たちが人を赦すのであれば、私たちの罪も確かに赦されるのだ。これは神の約束なのである。

悪意が悪意を呼ぶように、赦しは赦しを呼ぶのだ。どちらも確かであるが、どちらが優れているのかは、考えるまでもないだろう。