アーメン

イエスは祈りの最後にこう言っている。「アーメン。」(マタイの福音6章13節)

これに倣ってだろうか、クリスチャンは祈りの最後に、必ずと言っていいほど「アーメン」と言う。もちろん、私もそうするひとりなのである。そう言えば子供の頃には、どこの誰が最初に言い出したのかは分からないが、「アーメン、ソーメン、冷やソーメン」などとふざけたことを言ったこともある。これまたどうでもよいことかもしれないが、なぜかラーメンというのは登場しなかったようだ。たしかに「アーメン、ラーメン」と言ってみると、語呂が合わない。まぁ、それはそれとして、私も信仰を持って祈るようになってから、最後はアーメンと言うようにしている。声に出して祈るときもそうだし、声に出さずに心の中で秘かに祈るときもそうである。もっともいつも必ずというわけでもない。時々、忘れてしまうこともある。しかし意図的に「アーメン」と言わないでいようと思うことはまずない。だからと言って、言わなければいけないと考えているわけでもない。要するに、意識しているわけではないということだ。祈った後に、自然と出てくるのである。

それでは、この「アーメン」というのは、どのような意味があるのだろうか。あまりにも当たり前のことなので、真面目に考えることが少ない。丁度良い機会なので、改めて考えてみようかと思う。

さて聖書の中で最初にこの言葉が出てくるのはどこであろうか。正直、今の今までこの箇所、つまりイエスの祈りが最初かと思っていたのだが、よくよく調べてみるとそうではないらしい。もっとも新約聖書ではここが最初に出てくるのだから、大間違いというほどではないかもしれないが、実は旧約聖書の民数記に一番最初の「アーメン」が出てくるのだ。告白するが、私は知らなかった。それ以外に、詩篇などでも使われているのだ。例えば詩篇の41篇にはこう書いてある。「ほむべきかな。イスラエルの神、主。とこしえから、とこしえまで。アーメン。アーメン。」

これを見て気付く人は気付くかもしれないが、つい最近どこかで似たような文句を聞いたことがあるのではないだろうか。それがどこかというと、イエスの祈りの最後、締めくくりの箇所である。「国と力と栄えは、とこしえにあなたのものだからです。アーメン。」(マタイの福音6章13節)

もちろん、イエスが言うところの「あなた」とは、祈りの対象である神のことを示している。これを見ると、栄光は永遠に神にあるということを強調するかのように、アーメンという言葉が使われているかのような印象を受ける。確かに他の箇所を見ても、その多くが神を賛美し礼拝するときに使われているようだ。例えば、黙示録7章12節にはこう書いてある。「アーメン。賛美と栄光と知恵と感謝と誉れと力と勢いが、永遠に私たちの神にあるように。アーメン。」

ちなみに「アーメン」の意味であるが、平たく言えば「真実」「その通り」となるだろう。つまりニュアンスとしては、直前に言われたことの内容が正しいことを認めることである。

祈りの中において神を賛美した後に「アーメン」と言うことは、その賛美に偽りがないこと、本心であることを認めることになる。またそれと同時に、祈りの内容に誤りがないことを認めることにもなるのだろう。日本の教会ではあまり見られないが、牧師のメッセージに対してアーメンというのであれば、牧師の言葉に同意することになるのだろう。考えてみれば、これは発言する側としては責任重大なことではないか。自然にアーメンと言えることは良いことだろうが、その意味を意識せずに言ってしまうのは、必ずしも間違っているとは言えないかもしれないが、考え方によっては軽率とも言えよう。

神に対して祈り、アーメンと締めくくったとしよう。しかし後になってから、やはりあれは本心ではなかったなどと言うことはできない。これでは嘘をついたも同然である。また意図的にアーメンと言わないことも、神に対して本心を語っていない、もしくは語りたくないということになるだろう。とりあえず格好だけでも祈ってみた……ということになりかねない。これでは祈りとはいえない。

アーメンと言うことで、人は自分の祈りに責任を負うことになる。しかし神は人のそのような思いをうわべの行いよりも喜ばれるのだ。