負いめを赦されて

イエスは弟子たちに示した祈りのなかでこう言っている。「私たちも、私たちに負いめのある人たちを赦しました。」(マタイの福音6章12節)直前の言葉との関係を考えると、私たちも負いめのある者たちを赦したのだから、私たちの負いめも赦して下さいという意味合いになってしまうのであるが、どうもそれだと前半で読んだ「自分の前でラッパを吹いてはいけません。」(2節)と言うイエスのことばと矛盾しているような気がしてならないのだ。まさしく、私たちが何かをしたから、その報いとして何かをされるべきであるという感じで、神に対して条件を提示しているというか、まるで自らの行いを取引の材料としているようで、果たしてこのような祈りで本当に良いのであろうかと疑問に思えてしまう。しかしながら、イエスが自らのことばを覆すような祈りをするわけがないであろうから、これは何やら別の思い、異なる意味が込められているのではないだろうかと考える方が、むしろ自然であろう。

まず前回のおさらいになるが、私たちが神に対して負っている負債、すなわち罪とその結果である死を取り消すことができるのは、ただ神のみであり、神以外の何者かが都合良く赦すことはできないということだ。たとえ私たちがどれほど善行を積んだとしても、それをプラスマイナスゼロにすることはできないし、残念ながら私たちにそれほどの善行が行えるとも思えない。

さて神が私たちの負いめを赦すことができることは分かった。だからと言って、神が必ずしも私たちの罪を赦さなければいけない理由はないし、私たちを永遠の死から救い出さなければいけないという義理もない。ヤマモトカツトシは悪いやつだから地獄の炎で焼かれるに任せてしまおう、などと神が考えるのであれば、そうすることもできるのだ。まかり間違っても、私たちは赦されて然るべきなどと考えてはならない。しかしヤマモトカツトシがいい加減なやつであることに違いはないが、神は彼の負いめを赦して下さったし、今後もことあるごとに赦して下さるだろう。それはひとえに私が珍しく何か善いことをしたからでもなければ、私に価値があるからでもない。ただ神が私に慈しみと憐れみを抱いて下さったからに過ぎないのだ。そのように神が私を慈悲を掛けて下さったから、私が赦しを求めるときに、神は私の負いめを取り除けて下さるのだ。神が私を赦されたことによって初めて、私に価値が出てくるのであろう。

ところで私たちが他人の負いめを赦すとしたら、やはり私たちが赦すことができるのは、私たちに対しての負いめであろう。私の知らぬどこかの誰かが、これまた私の全然知らぬ人に対する過ちなど、普通に考えれば赦せるわけがない。赦すの赦さないのというのは、これは神と人の間でもそうであるように、人と人の間でも同様に当事者同士で決着をつけることであろう。なるほど、そう考えてみると、私たちが赦すことのできる対象というのが、だいぶ絞られてくるであろう。しかし誰が私たちに負いめを負っているだろうかと考えていくと、一番赦したくない人々の顔が浮かんでくるように思えてならない。考えてもみれば、自分とは何の関わりもない人の過ちというのは、簡単に見過ごすこともできれば、まぁ構わないではないかと他人事のように言うこともできよう……というか、他人事そのものだから、私たちが直接何らかの被害を被っているわけでもないので、さほど気にならないと言ってしまえばそれまでだろう。しかし日頃から関わりのある人々であればこそ、私たちが赦さなければならないのに、一番赦しにくいと感じてしまうのだ。

そう考えてみると、私たちに負いめを負う人々を赦すのは実に難しい。神の赦しを得るためには、まず私たちが彼らを赦さねばならないのだろうか。だとしたらそれは限りなく不可能に近い。いや、そうではないだろう。むしろその反対ではないだろうか。私たちが赦されたからこそ、神が私たちを哀れみ慈しんで下さったことを思えば、私たちも人に対して同様に寛容さをもって接することができるのではないだろうか。

もしかしたら、キリストはそのことを弟子たち、ひいてはこの祈りを読む私たちに教えたかったのではなかろうか。