負いめを赦す

イエスが弟子たちに手本として示した祈りを見てきたが、何となく見えてくることがある。ひとつは、祈りというのは、まず神が存在してこそ成り立つということだ。祈りは神に対して向けられるものである。祈りは人に対して向けられるものでもないし、よく「星に願いを」などと言うが、自然に対して向けられるものでもない。ましてや人間がその手で作りあげた偶像などに向けられるものでもない。祈りとは、天地の創造主である神に対して捧げるものなのである。また祈りにおいては、人は神の前に従順な態度を表すことでもある。神を自分よりも高みに見ることであって、人の意のままに動かそうなどと考えるものではないということである。あえて一言でまとめるのであれば、祈りは人が主役ではなく、神が主役であると言えよう。

さてイエスの祈りはまだ終わっていない。続きを見ていこう。「私たちの負いめをお赦しください。」(マタイの福音6章12節)

負いめを赦してください……とはいかに。罪を赦して下さい、ならばすぐに分かるのだが、なぜ負いめを赦してくださいなのだろうか。わざわざ真剣に悩むような違いはないのかもしれないが、ちょっと気になってしまった。ちなみに英語の聖書を読んでみると、この箇所は”Forgive us our debts”と書かれている。”debts”とはやはり日本語で言うところの「負いめ」なのである。どうやら日本語に訳すときに「負いめ」に変わったわけではなさそうだ。

改めて考えてみると、負いめとは何であろうか。他人に対して負債、借金、何か返さなければならないものを抱えていることを、負いめと言う。またそれらを抱えているが故に、人に対して、とくに借りた相手に対して、頭の上がらぬ気持ちとなり、心に負担を感じることでもある。そして負いめを赦されるとは、そのような負債から解放されることであり、心に重荷を感じる必要もなければ気持ちを楽を持つことができるので、それが人にとって良いことであるのは間違いないだろう。では人が何らか負債を負っているとして、それを免除することができるのは誰だろうか。それは他ならぬ貸した本人であろう。私も住宅ローンを銀行から借りている一人である。まさしく私の「負債」なのであるが、この負債を取り消してくれるのは銀行だけだ。第三者がやってきて「ローンは帳消しになったよ!」と言ったとしても、銀行も私も「そんな馬鹿な!」と言うことだろう。もちろん、そうだったら文句なしであるが、借金をしているという事実がある限りは、貸主である銀行が「もう返さなくていいよ」と言うまでは、負債があるという事実に変りはないのだ。いくら私が頭を下げてお願いをしたとしても、残念ながら銀行はローンが完済されるまではそんなことを言ってはくれない。

イエスは祈りの中で、負いめを赦してくださいと言っているが、人は神にどのような負いめを負っているのだろうか。義なる神から見た場合、人が意図して犯す罪は当然のことながら、無意識のうちに犯してしまう過ちさえも、不義となるのだ。そして、不義は死をもって償われなければならない。それが、人の神に対する負いめなのだろう。そのようなことを考えると、死という負債から免れますようにと、神に対して祈ることは自然なことであろう。銀行とは違って、神は情け深いお方である。だから人がそう願うのであれば、神はその思いを聞き届けてくれるだろう。そして他の何者でもない、ただ神のみが、人の神に対する負いめを取り去って下さるのだ。

さてイエスは続けてこう言っている。「私たちも、私たちに負いめのある人たちを赦しました。」(12節)これを読むと、私たちが他人の負いめを赦したから、神に私たちの負いめを赦して下さいと言っているように聞こえてしまう。英語で読むと、二つのつながりがより明白に書かれているのだ。しかしそれでは自分たちが他人を赦したからという条件をつけて祈っているような印象を受けてしまう。これこれをしたから、何それをして欲しい、というのでは、イエスが今まで教えてきたことと違うように思えてならない。なぜここで人が主役になっているのだろうか。何か理由があるのだろうが、果たしてそれは何であろうか。これはまた考えてみようと思う。