御国が、みこころが

イエスがどのように祈っているのか。イエスの祈りから、私たちは何を知ることができのだろうか。それは祈りのあるべき形であろう。まず前回見たことから分かっていることは、先ず父なる神に祈るということ、そしてその父なる神を神として認めることであった。

それでは続きを見ていきたいと思う。イエスは続けてこう祈っている。「御国が来ますように。」(マタイの福音5章10節)御国とは、神の国のことである。神の国とは、すなわち神が統治する場所を意味しているのだろう。今そのような場所がこの世にあるかというと、目に見える形では存在しない。存在しないからこそ祈って求めるのだろうが、神の国とはどのようなものだろうか。目には見えないからといって、まったく存在しないということではないだろうと私は思う。キリストを受け入れたときに、信仰者はすでに心の玉座を神に譲っているのだ。すなわち私たちの心の中に、神の御国は存在している。御国がくるようにと祈ることは、神が私たちの行いと思いと考えの中心となることへの期待を込めての祈りであろう。

「みこころが天で行なわれるように地でも行なわれますように。」(同10節)これも前の言葉と同じ意味を持っているだろう。神の国が現れることと、神の意志が実現されることが、人のどのような願いよりも優先されるということであろう。もちろん人の願いが、神のみこころが実現することであれば、何も問題はないだろう。それが最善なのは間違いないだろうが、果たしてどれほどの人が、そう言い切ることができるのだろうか。残念ながら私について言えば、それは無理な話である。私には私の描く理想というものがあり、果たしてそれが神のみこころであるのかどうか、またそれが神に心を治めてもらっていることになるのかどうか、到底知ることはできないであろう。人の考えることと、神の考えることが一緒であるということは、そうそうあるものではないだろう。もちろん信仰が篤く揺らぐことのない確たるものであれば、結果として神の思いと人の思いは似たものになるのかもしれないが、神を信じているからといって、それをすべての信仰者に期待するのはどうかとも思う。だからこそ、自分のことをあれこれと述べる前に、まずは神を主語として、祈ることが重要なのだろう。

それにしても、人が祈るのは、何かを求めているときであろう。なぜ自分が何かを欲しているというのに、神の御国だの、神のみこころだのが実現するようにと祈らなければならないのだろうか。神は完全なお方であり、全知全能なるお方である。結局のところこの世界を作られたほどのお方であるのに、なぜ私たちが祈らなければならないのだろうか。神がそうと望みさえすれば、この地上に降りてきて、御自身でこの世界を治めることができるだろうし、そうと願えば、国を滅ぼすことも国を建て上げることも、人から命を取り上げることも人に命を与えることも、たとえそれが人にとっては不可能なことであっても、どんなことで自由自在に成すことができよう。

そのような神に私たちの祈りが必要であろうかというと、必要ではないだろう。どちらかというと、祈りが必要なのはむしろ私たち人間である。だからこそ祈るでのあるが、その祈りにおいて、まず最初にするのは、前回も見たとおりであるが、神を認めることである。そして次には、神の御国が実現することと、神のみこころが行われることを願うのだ。神のみこころというのが、私たちの求めているとは限らない。それどころか私たちの願いとは百八十度異なること、私たちが望まないことであるかもしれない。それでも私たちは自らの願いよりも、神のみこころを求めることが優先されるのだ。なぜなら、聖書の他の箇所にも書いてあるように「神のなさることは、すべて時にかなって美しい」からだ。神は私たちにとって、その時その場において、何が必要かをすべて存じておられるのだ。私たちが気付いていないようなことでさえも、神は知っており、それを私たちに与えて下さるのである。であるからこそ、私たちが限りある思考と移ろい易い心で思いつくことを求めるのではなく、神が私たちのためになさろうとしていることが、実現することを願い、祈るのである。なぜなら、そうして与えられるものが私たちにとって最善のものであるからだ。そして祈りつつ待つことで、人は神のみこころがどのようなものであるかを知ることができるのではないだろうか。