祈りのありかた

人に見せるための善行は、善行にして善にあらず、というところである。祈ることもまた然り。人に聞かせるための祈りは、祈りにして祈りにあらず、であろう。

祈りとは何であろうか。誰でも生きている間に、少なくとも一度くらいは祈ったことがあるだろう。何も祈りとは、キリストを信じる者にだけ許されているという特権のようなものではない。神を信じていようと信じていまいと、誰でも祈ることはできよう。但し、何に対して祈るのかは、それは人それぞれ千差万別というものだろう。キリストを信じる者にとっては、祈りの対象とは、父なる神、子なるキリスト、聖霊であろうし、またカソリックであれば、イエスの母マリアも祈りの対象になるのかもしれない。いわゆる一般的な日本人であれば、神社やお寺にお参りする時に、お賽銭を投げ入れた後に、手を合わせたり柏手を打ったりして、願い事なりを心の中で唱えるだろう。また何も特定の神仏に対する信仰を持ち合わせる必要もない。流れ星に願いを込めるということもあれば、誕生日ケーキの蝋燭を吹き消す時に願いを心に描くということもあるかもしれない。宝くじを買うときに、何も考えずに買う人もいるかもしれないが、手を合わせないまでも「当たりますように」と心の中で唱えることもあるだろう。

私なども先日誕生日だったのだが、ケーキの上の蝋燭を吹き消すときに、宝くじが当たりますようにと願ったものだ。そして休み明けの日に、ナンバーズ3を購入した時にも当たりますようにと、密かに心の中でつぶやいてみたりもした。が残念ながら、私の願いは誰にも聞き届けられなかったのか、何も当たらなかった。世の中そんなもんであろう。心の中で何かを願ったからといって、すぐに願いが実現するというわけでもあるまい。

神に対して祈ろうが、星に対して祈ろうが、先祖に対して祈ろうが、宝くじに対して祈ろうが、人々にとって祈りの対象となるものは数多あるだろうが、人がそのように祈ったり願ったりするのは、極めて個人的な内容であることがほとんどであろう。そう考えると、わざわざ人前で祈る必要はないし、人前で祈りたいなどと思う人は、まずいないだろう。もしも街中で声を大にして祈っている人がいたら、それこそ世間から白い目で見られてしまうに違いない。

ところでイエスの時代、律法学者と呼ばれる人々は「祈り」の中で、自分たちはいかに真面目でどれほど熱心に律法を守っているかを声高に宣言し、律法に従わない異邦人のようではないことを感謝していたという。これでは、祈りではなく単に自分たちの「清さ」を自慢しているだけではないだろうか。おそらくイエスはそのような当時の様子を見た上でこのように言ったのだろう。「祈るときには、偽善者たちのようであってはいけません。彼らは、人に見られたくて会堂や通りの四つ角に立って祈るのが好きだからです。」(マタイの福音6章5節)

偽善者と呼ばれる者たち、すなわち人から認められたいがために「善いこと」を行うような人々は、やはりその祈りもどこか本来の趣旨からはずれたものだった。彼らは感謝を捧げるでもなく、願いを伝えるでもなく、わざわざ周囲の人々に聞こえるように、自分たちの正義を宣伝していたのだ。彼らは神に祈っているかのように見えたかもしれないが、実際には神に対して自らの思いを伝えるものではなかった。

だからイエスはこのように言っている。「祈るときには自分の奥まった部屋にはいりなさい。そして、戸をしめて、隠れた所におられるあなたの父に祈りなさい。」(6章6節)

ここでイエスが教えていることは祈りの基本であろう。まずどのような場所で祈るのか、そして誰に対して祈るのか、その二つを知ることができよう。

祈る場所として理想的なのは、自分だけの場所である。自分ひとりしかいないので、誰にも聞かれることはない。人に対しての遠慮も見栄も不要である。だから正直になれるということだろうか。では正直に祈るにしても、誰に祈るのか。何やら雲の上の遙か高いところにいるよく分からないけど凄い誰かさんに……ではない。祈る相手は、父なる神である。神は人々の隠れた行いのひとつひとつ見ておられ、人々の隠れた祈りの声を漏らすことなく聞かれるのだ。人が祈るのは、人に聞かせるためではない。それは神に声を届けるためなのである。