見ざる

「見ざる」と聞いて「見ざる、言わざる、聞かざる」で知られている日光東照宮の三匹の猿を連想してしまうのは私だけだろうか。東照宮と言えば、華厳の滝と並んで、日光観光の定番であろう。そして東照宮と言えば、この三猿と眠り猫が有名だ。三猿がモラルを伝えるのであれば、眠り猫は今の言葉で言うならば「癒し系」というところか。ちなみに三猿であるが、日光だけにあるユニークなものではないらしい。古今東西に通じるものらしいが、それはあくまでも余談なので、今は置いておくとしよう。ところでこの三匹の猿が意味するところは、悪いことに目を向けるな、悪いことを口にするな、悪いことに耳を傾けるな、ということである。そうすることによって、自らが悪に染まることのないようにとの、古人の知恵である。

ところが悪事に目を向けなければ、それだけで良いのかというと、どうやらそうでもなさそうだ。イエスの教えに従うのであれば、「見ざる」だけではなくて「見せざる」ということも追加されるらしい。では何を見せてはいけないのだろうか。それは悪事を人に見せるなということだろうか。悪いことを見せないのは、誰かに言われるまでもなく当然のことであろう。悪事を見てはならないのであれば、なおのこと人を誘惑し、油断させるようなことをするのはいかがなものか。というようなことを、イエスは教えているのだろうか。

いや、ちょっと違う。イエスはこのように言っている。「人に見せるために人前で善行をしないように気をつけなさい。」(マタイの福音6章1節)

普通に考えるのならば、良い行いを見られても問題はないだろう。もちろん、その通りである。イエスがここで言ってるのは、人前で善行をするなということではない。その目的が重要なのである。人に見せるため、つまりパフォーマンスとして良いことを行ってはならないということなのだ。なぜなら人に見せるための善行は、善行ではなく偽善だからだ。偽善というのは、その字が表す通りに偽りの善である。すなわち善であって善ではない。しかしながら施しを受ける側から見るとしたら、偽善であろうと、本当の善意であろうと、その結果として受け取るものに大した違いはないだろう。そう考えてみると、偽善だろうが、純粋な善意であろうががどちらでも構わないではないか、と思うのである。

ところが視点を施される側から施す側に移すと、違いが見えてくるようだ。例えば誰かが自分の行いを、わざと人目に付くようにしてやったらどうだろうか。おそらくその人はその行い故に人々から賞賛されるだろう。ところが世の中は様々な価値観を持つ人々が住んでおり、皮肉なものであるが、善行と思えるものであっても、見る人によっては単なる自己満足にしか見られないことが往々にしてある。

あまり良い例えではないかもしれないが、日本人はなぜか千羽鶴が好きなようで、海外で発生した災害の被災者に千羽鶴を送った人たちがいるくらいだ。黙ってやればよかったものの、何を勘違いしたのか、それを公表してしまったものだから、私のような冷淡な人間などは、便所紙にもならない、なんと無駄なことを、と呆れてしまうし、もちろん本人たちにはそのつもりがなかったとしても、偽善者ではないかと勘ぐってしまったりする。

要するに偽善というのは、人から賛同を得たい、人から認められたいという思いがその根底にあるのだろう。人のために何かをしているように表面では見えても、実際は自分を満足させるため、自分の評価を上げるために何かをするということなのだ。

ところで神は隠されたものでさえも、見通すことのできるお方である。これは悪事を働いたとしても、善を行ったとして関係ない。悪いことをしても、ちゃんと見ておられることを考えると、ちょっと空恐ろしくもなってしまうが、その反対に隠れた良い行いも見ておられることを考えると、それはそれでちょっとした励ましにもなるのではないか。

自身の行いの基準をどこに、誰に定めるのか、誰に認められたいか、誰から評価を得たいか、すなわち人が誰の目を一番気にしているかということだろう。人の顔色を伺ってばかりであれば、その行いは偽善に陥り易いものとなろう。しかし見える行いばかりでなく、隠れた行いや、秘められた思いも含めて、あらゆる面から人を見ている神がおられ、その神は人々を罰することよりも慈しむことを望んでおられるのだから、人目を気にせずに純粋な善を行うことができるのではないだろうか。