完全であること

ひとつひとつのルールや戒めに従って行動することが、人を義とするのであろうかというと、どうやらそうではないことは前回も見たとおりである。

例えば、姦淫をしてはならないというのがある。浮気は良いことではないが、幸い普通に生活をしていれば、浮気をしようという思いも沸かないだろうし、そのような機会もないだろう。だからよほどの遊蕩者でない限りは、姦淫するなかれの戒めを守ることは、それほど難しいものではないどころか、普通のことのようにも思える。ところがイエスのことばに従うのであれば、「情欲をいだいて女を見る」(5章28節)ことがすでに姦淫を犯したことになるのだ。

そんなことをしたことはないさ、と胸を張って言うことができれば良いのだが、私はそんな義人ではない。電車に乗っていて、きれいな女性など見てしまうと「おぅ~」と声には出さないけれども、ついつい目で追ってしまう。目が勝手に動いてしまう、というのは言い訳で、本当はもうちょっと見よう、などと思ってしまうわけだ。見るなと言われても、見るくらいならいいじゃないかと反論したくなってしまうのだが、そもそもそこからして改めなければいけないのだろう。それこそ、イエスの教えに文字通り従うのであれば、私の両方の目から目ン玉えぐりだして捨てるなり、もったいないなら自給自足ってことで目玉焼きにして食ってしまわないといけないだろう。

また、誓ってはならないとも言っている。偽りの誓いをしてはならないというのが、本来の戒めであった。しかしイエスは「決して誓ってはいけません」(5章34節)と教えている。もちろん守るつもりのないことを誓うのは悪いことだというのは、常識として分かるのだが、なぜ誓うこと自体が許されないのだろうか。何かを誓ったら、それを守るようにすればよいのではないだろうか。が、そこが問題なのである。何かをすると決めて、必ずそれを成し遂げることができるかというと、案外そうでもない。一度だけするというのならばまだしも、続けてやると決めたことほど、人はどこかで挫折するものであろう。例えば、私などは毎日聖書を読もうと年に一度は心に誓ったりするのであるが、一週間も続けば優秀なくらいである。何を誓おうとも、人はどこかで躓いたりするものだ。イエスがこのようなことを言ったのには、人が誓いを守れなかったことの責めを負わずに済むようにという考えもあったのかもしれない。将来の不確実なものに対して誓いを立てるのではなく、今目の前にあることについて「はい」もしくは「いいえ」と、答えを出すことが人にとって実現可能なことなのである。

他にもイエスはこう言っている。「自分の敵を愛し、迫害する者のために祈りなさい。」(5章44節)隣人を愛し、敵を憎む、これが律法で決められていたことだった。しかしイエスは敵を愛せよと言うばかりか、右の頬を殴る者には左の頬も殴らせろと言う。これは手痛いを通り越して理不尽にさえ思える。もちろんイエスはその理由をこう説明している。「あなたがたは、天の父が完全なように、完全でありなさい。」(5章48節)

キリストは「律法や預言者を……成就するために」(5章17節)やって来たと言っている。そして律法を守るとは、律法に従って行動するだけでは不十分であり、律法を通じて義となるためには、見えない心の内側から正しい思いを持たねばならぬと言っている。また心の中に一点でもよこしまな思いがあるのであれば、それは律法を犯したの同じであるとも言っている。人間の考えや理想ではなく、キリストの基準で律法を守るためには、完全なものとならなければいけないのだ。

果たしてそのようなことが可能なのだろうか。人は完全になれるのだろうか。どうもそれは無理なことのように思えるのだ。では人は義となることができないのだろうか。人は義を目指すことはできるが、残念ながらそれに到達することはできないだろうとも思う。なぜなら人は神ではないからだ。だとしたら、なぜキリストはこのようなことを言っているのだろうか。どういうわけで、できないことを求めているのだろうか。

私の推測でしかないが、キリストは人々に人間としての限界を気付かせたかったのではないだろうか。そして律法を通して義を得るのではなく、信仰によって義を得るようにと伝えたかったのではないだろうか。