支払い

先日、キャンペーン期間中ということもあって、とうとう話題の(というにはちょっと旬を過ぎてしまったような気もするが…)iPhoneを買ってしまった。これで私が契約している携帯通信事業者が三つに増えてしまった。ちょっと多過ぎる気もするが、そこはこんな私でもエンジニアの端くれである、話題の製品やサービスを試したくなるのだ。結果として損することもあるのだが、それでも一度も使わずにモヤモヤしたままでいるよりは、試したけどやっぱり使えなかったと納得する方がまだましだろう。

使い始めて十日ちょっと経ったが、これが思っていたよりも使えてなかなか便利なのである。何より感謝なことは、重たくて普段は持ち歩くことのできなかった聖書を、手軽にどこへでも持っていけるようになったことだ。これで通勤電車の中だろうがどこだろうが、いつでもその気にさえなれば聖書を読むことができるのだ。もちろん「その気」になればであるが、残念ながらまだ数えるほどしか「その気」になったことがない。これは実に勿体ない。それ以外にも色々と使えるのだ。家のアドレス宛に届くメールをどこでも読むことができるし、場所や時間に束縛されずにブログの更新もできる。これの下書きだってできるのだから、ちょいと空いた時間を有効に使うことができて助かっている。買ったことを後悔するかどうかと思ったのだが、すでに手放すことができなくなってしまったほどである。人から聞かれたら熱く語ってしまいそうだ。まったくこれほどの熱心さで福音を語ることができれば、さぞかし大胆な伝道者になるであろう。

さて実はこれが一番のきっかけだったのだが、先のキャンペーンのおかげで本体の価格がゼロ円であった。もちろん本体がゼロ円だとしても、月々の利用料は支払わなければいけない。ということは、契約中の三つの事業者の利用料を払わなければいけないのである。但しひとつは解約する予定だが。

それにしても考えてみると、毎月だったり毎年だったり、常に決まって支払わなければならないものがいかに多いことか。前述の携帯料金の他に、固定電話、インターネット、それにケーブルテレビ、通信費だけでこれだけある。他にも基本的な電気、ガス、水道があるかと思えば、ローンの返済に、駐車場代やマンションの管理費に修繕積立金だってある。それに保険もあるし、給与明細を見るとちゃんと税金だって年金だって引かれている。そして毎年必ず、ちょうど忘れ掛けた頃になると、クルマの税金を払えだの、土地や家の税金を払えだのと催促の手紙が振込用紙と一緒に送られてくるのだ。そうやって考えてみると、毎度毎度の支払いに追われて生活をしているような気持ちになってしまうのであるが、はたして幸か不幸か、自分で財布からお金を出して払うわけではないから(年毎の税金は例外だけども)普段はそのようなことを気にしないで過ごしている。「タダより高いものはない」と言うけど、果たして只のものなんてこの世にあるのだろうかと疑ってしまう。

さて話は変わるが、聖書はこう伝えている。誰でもキリストを信じて、自身の罪を悔い改めて、神に立ち返るのであれば、永遠のいのちを手に入れることができると。神に受け入れるために、あれをしなければいけないとか、これをしなければいけないとか言う決まりはない。ただ信じるだけで良いのだ。一見すると、罪の赦しと永遠のいのちは、神の恵みのゆえに無償で与えられているかのように思われてしまう。しかしこれとて、只ではないのだ。もちろん私たちが罪の赦しの代価を払ったわけではない。なんと言っても、罪の赦しを得るには、死をもって償わなければならないから、私たちに払えることができないのである。だから私たちの代わりに、イエス・キリストが自らの死によって、その代価を支払って下さったのだ。私たちに与えられている永遠のいのちは、深く考えることがなければ、信仰があるから受けて当然のもの、神の恵みで無償で与えられているもののように思われてしまいがちであるが、実際は人がどんなに頑張ったところで払いきれないほどの代価が支払われているのだ。

おそらくこの世に存在する有形無形のもの全てにおいて、永遠のいのちはもっとも価値あるものであろう。それにも関わらず、私たちが手を伸ばせば届くところにあるのだ。