神と出会う確かな道

私がこれを書き始めてから12年くらい経つ。忙しくて書けなかった(書かなかった?)時期もあったし、どうにも何を書いてよいのか思い浮かばないために、ひとまず英語のデボーションを訳してしのいでいたこともあった。そのようなものを除いて、果たしてどれくらい書いてきたのかをざっと数えてみると、正確な数字は分からないが、だいたい420編くらいである。我ながら、よくぞここまで続けてきたと思う。これからも書き続けていくであろうことを考えると、この数は増える一方である。

さてこれだけ書いているとふと心を過ぎるのだが、もしもこれに金額をつけるとしたらと、取らぬ狸の皮算用とばかりに考えてしまうことがある。仮にひとつ千円で売れたとしたら、42万円ということになる。しかし私の時給(仕事が終わった後の夜中に書いているんだから、深夜手当ても付けて…)と書くのに要する時間(平均3時間くらいかな…)を考えると、いくらなんでもそれは安すぎる。というわけで五千円に値上げしてみたら、なんと210万円にもなる。エッセイ420編がクルマ一台に化けるという具合か。もっとも現実には、お金を払ってまで読みたくなるようなものでもないし、こちらとしては、読んで下さる人たちにアタマを下げたいくらいの気持ちだ。しかし大前提として、私はこれを自己満足とか、利益をあげようかとか、そんな気持ちで書いているわけではない。これを最初に書くようになったそもそもの理由は、何か奉仕をしたいという願いからである。人当たりも悪いし、音楽の才能もないし、話すのも苦手ときたら、文字を書くくらいしかできないだろう。だから、結局これに金額を付けることはできないのだ。

さすがにきれい事ばかり書いて納得する自分ではないので、それはそれで別の場所で発散させている。

ところで利益とは別の意味での価値はどれ程あるのだろうかと、しばしば思うこともある。ところが、これもまたよくわからない。もしかしたらまるっきり価値がないかもしれないし、それならそれで仕方ないかとも思う。わずかでも読む人の思いを神に向けさせる事ができれば、書き手としての冥利に尽きるというものだが、人がどう感じるかなんて私がどうこうできるものでもない。最後は読み手に委ねる他にない。

考えてみるに不変の価値を持つ文書などこの世にあるのだろうか。例えば名の知れた人の記した物などはどうであろうか。しかしやはりそれらの価値というのも、読み手の好き嫌いで決まってしまうものなのだろう。如何なる名作であれ、私のような愚物の書く駄文であれ、読み手がダメだと思えばそれまでである。

しかしこの世に一つだけ例外となる著作がある。すなわち聖書だ。「聖書だってそれ以外の物と同じではないか」「好きな人もいれば嫌いな人もいるのではないか」「全ての人が受け入れている訳ではないし、否定する人々もいるではないか」と言われてしまうかもしれない。確かにその通りであろう。ところが聖書に限っては、読み手が価値を決める事ができないのだ。人が書いた物であれば、それを表した人が完全ではないのと同じように絶対ではない。受け入れるのも意見するのも読み手の自由である。しかし聖書は神のことばであり、神が完全無欠の存在であるように、そこに書かれていることは絶対なのである。もちろん、神御自身が筆を取って書き記したわけではなく、人が書き記したものであるから、少々の誤記はあるかもしれないが、それは聖書に書かれている本質を左右するものではない。そこに人が自らの意見や思惑を差し挟む余地はない。

振り返って見れば、今私がこうやって書くことができるのも、私が聖書と出会ったからだろう。もし私が聖書を知ることがなかったら、その揺るぐことのない価値を知ることもなかっただろうし、そこに書かれていることのインスピレーションとなった神御自身を知ることもなかっただろう。

神と出会う道は幾通りもあるだろう。それらがどのようなものか、何がそうで、何がそうでないのか…それは人の知るところではない。確かなことは、聖書は人に与えられた神に出会うための間違えのない道なのである。信じるか否かは別としても、神のこと考えずに聖書を読むことはまずできないだろうから。