雪と神の愛

先日、この冬初めての雪が降った。神奈川県の東の方、海の見える丘の上(と書いてみると意外に洒落て聞こえるから不思議だ)に住む私にとって雪はとても珍しい。子供でなくとも、どことなく嬉しくなってしまうのだ。ところが残念なことに、降り始めたのが夕方で、夜遅くにはやんでしまったものだから、翌朝日が上る頃には、ほとんどが溶けて消えてしまっていた。雪国生活を体験したことのない私にはとっては、雪の無い方が何かとありがたいのだが、その反面ちょっと寂しくもある。さてこの冬、雪の降る日は再びやってくるのだろうか?2月は寒くとも、3月になると徐々に暖かくなるばかりだ。もしかしたら先日の雪が、この冬最初で最後の雪だったのかもしれない。もっとも雪の降らない冬もあることを考えると、一晩だけでも雪が降り、うっすらと地面に積もったのだから、今年は恵まれたほうなのかもしれない。

そういえば雪でふと思い出したことがある。私が高校3年生の時のことだ。ところで私の高校は周囲より高い丘の上にあったので、門前の階段を必ず通らなければならない。ちょうどその日は雪が降り続いた後だったので、まだ至る所に雪が残っており、階段にも氷になりかけたような雪が残っておりツルツルと非常に滑りやすい状態になっていた。が、上る時はまだ良い。誰かが用意しておいてくれたのか、登山用ならぬ登段用のロープが用意してあるからだ。上に行くときには、それに掴まって登れば良いのだが、さて問題は帰りである。さすがにロープに掴まって後ろ向きに階段を下りる程でもないので、普段どおり前向きに手すりに掴まって階段を下りなければならない。慎重に転ばないように注意しつつ。ましてや私は受験生、転ぶ、滑る、落ちるは禁句である。なお一層気をつけねばならない。が、肝心なところでいつも失敗してしまう私は、足を滑らせて、転んでしまった。さすがに階段から落ちることはなかったものの、首の筋を痛めてしまった。そんなこともあったせいで…というよりも私の準備不足が本当の理由だろうけど、大学入試も落ちてしまった。しかし物は考えようで、受験に失敗したから、アメリカに行くことになり、そのおかげで今の私があることを考えると、結果的にあれでよかったのだろう。

とまぁそのような事件はあったものの、私は雪が好きである。これは私が滅多に雪が降らない地方に住んでいるから思う事なのかもしれないが、雪が降り、さらに積もったりすると、妙にうきうきとした気持ちになるのだ。何もスキーとかがスキという訳でもない。雪の中で何をするというのでもなく、また雪で何かをするのが楽しみということでもない。雪の何が好きかと問われれば、雪が外の世界のありとあらゆるものを、すっぽりと覆い尽くしてしまうところだと私は答えるだろう。

雪は外の世界にあるものすべてに降り積もる。それが目障りなものであろうと、目を楽しませるものであろうと関係なく覆い尽くしてしまうのだ。空の下にある限り、延々と降り続ける雪から逃れることはできない。ただただ雪がやむのを待つのみである。また雪に包まれた世界は静かである。雪が音を吸収してしまうのか、雪がために外で何かをしようとする人が少ないからなのか、普段の賑わいが嘘のように思われてしまう。それこそ雪が降っている夜に聞こえる音と言えば、かさかさと雪が積もっていく音くらいである。

ひとたび雪が積もると、冬のくすんだ景色は白い雪で隠され、思いや考えを邪魔する喧騒は消え去り、世界は違う姿をさらすのだ。しかしそれは決して寂しいものでもないし、孤独なものでもない。言うなれば、浮世離れしているというか、超然としているのだ。大げさな言い方をさせてもらうが、神々しさを感じるのだ。

そういったことを考えていると、雪は私に神の愛を連想させるのだ。雪が外にあるすべてのものに降り注ぐように、神の恵みは分け隔てなく全ての人々に与えられているのだろうし、雪が世界を静かにするように、神の慈しみは私たちの心を騒がしたり悩ましたりする様々な雑念を、鎮めてくれるのではないだろうか。雪はやがてやんでしまい、世界はいつもの姿を取り戻すのだが、神の愛はけしてやむことがなく、私たちを恵みと祝福とで覆っているのではないだろうか。