お守り

先日のことだが、マンションの階段の下にある郵便受けの上にお守りが置いてあった。きっと誰かが落としたのを別の誰かが拾って、そこに置いておいたのだろう。それにしても、カバンからお守りをぶら下げていたりと、お守りを持っている人を日に一度は見掛けるような気がする。髪の毛がまっ茶色のちゃらちゃらした女子高生でも、アクセサリーやら正体不明の様々なオブジェ(?)をカバンからぶら下げているのを目にすることがあるが、そんな派手な子までが、お守りをぶら下げていたりするから、ちょっとギャップがあって、面白いと思ってしまうこともある。ちなみに今日は駅で電車を待っていたら、携帯のストラップにお守りをぶら下げているおじさんを目撃してしまった。ちなみにその人は、お守り以外にも色々と下げていた。何と言うか、妙な違和感を感じてしまった。

そういえば、お守りに限らず、おみくじも結構な人気である。神社に行くと必ずと言ってよいほどに、おみくじを売っているし、売り場の近くの木の枝にはびっしりとおみくじが結び付けられていることもある。ちなみに私も子供の頃は、このおみくじが何やら特別なものに思えたので、よく親に買ってもらっていたものだ。但し子供の考えることなので、せっかく買ってもらったおみくじを神社に置いたままにして帰ってしまうのが、何とも勿体ないことに思えたので、そのまま家まで持って帰っていたが。

そうそう、あとは国民的行事にも等しい初詣がある。毎年大勢の人が、寒い冬の朝から神社に詣でるのだ。ナマケモノの私には、とてもじゃないけど真似ができない。午後から始まる元旦礼拝でさえも億劫に感じてしまうことがあるから、日本人の勤勉さに改めて感心してしまう。かく言う私も日本人なのであるが、どうも怠惰な性格のようで、マジメな人たちをもう少し見習った方が良いのではないかとも思うが、どうもそれも口先だけのようである。

それにしても、お守りを身近に持っていたり、おみくじで運勢を占ったり、節目節目において神社仏閣にお参りに行ったりと、ずいぶんと信心深いものである…と考えたくなってしまうが、本当はどうなのだろうか。私自身も幾度となく神社やお寺にお参りに行ったが、信心から行ったわけではない。これは私の勝手な推測でしかないのだが、おそらく多くの人たちが信仰心から、お参りに行ったり、おみくじをひいたり、お守りを持っていたりするというわけではないだろう。初詣は神社へ、結婚式は教会へ、葬儀はお寺で…という具合だから、汎神論的というか、むしろそれを通り越して無神論に近いというのが、世間一般の考え―おそらく当人たちにしてみれば意図して考えているわけではないだろうが―今の世の潮流なのかもしれない。

どんなものでもいいから何かにすがろうという気持ちや思いが、人々のうちにあるのだろうか。己の心の深みさえ知り得ないのに、人々の心の奥底に何があるのかなどは、私の知るところではない。そこでキリストに出会う前の自分はどうであったろうかと振り返ってみようと思うのであるが、かつての自分がどうであったかを思い出すのが最近難しいと感じてしまう。それでも、ちょっと考えてみると、何でも構わないというわけでもなかったようだが、だからといって何か特定の存在、具体的な何者かを信じていたわけでもなかったようだ。漠然とした考えなので、今さら言葉で説明することもできないが、おそらく多くの人々は同じように考えているのかもしれない。八百万の「神々」を信じているというわけでもないが、具体的な何かを信じているというわけでもない。かといって、何も信じていないのとは、ちょっと違う。それこそ雲を掴むような思いなのかもしれない。

考えてみると、人々のうちに自分の理解と能力を超えた存在を求めようとする思いがあること自体が、神の存在を指し示しているのではないだろうか。もし神が存在せず、人々が超自然的な存在を完全に否定しているとすれば、極端な話であるが、お守りなどは存在意義を失ってしまうだろうし、教会はもとより、神社も仏閣も存在し得ないだろう。

しかし、神は現実の存在なのである。但し、お守りの中には存在しない。神と出会うには、まずは聖書の中を覗いてみるべきである。