通信費20万円

iPhoneを使い始めてもうすぐ2ヶ月が経過する。さて先日2月分の請求書が届いた。届いたといっても、請求書が郵便で届いたというわけでもなく、金額が確定しましたとのメールが届いただけなので、詳細を知るには自分でインターネットから確認しなければならない。なるべく無駄遣いをするまいと思って頑張っていたので、その成果を知りたく、さっそく金額の内訳を見てみた。すると…212,566円とある。えぇっ!?…桁を間違えているわけじゃないよな。確かに21万円を超えているではないか。にじゅういちまんえん!もちろん、これだけの金額を請求されてしまっては、それこそ破産してしまう。しかし明細をちゃんと見ると、割引額212,566円と書いてあるので、実際に私が支払うのは基本料金だけである。なるべく無駄な通信費を抑えようと日々気をつけていても、どうしても使ってしまうのである。これでは通信費が十万単位になってしまうのも納得である。

そんなことを考えていると、ふと思いついたことがある。キリストが私たちの罪のために支払われた代価の大きさである。それこそ私たちの罪を償うための代価といえば、20万どころじゃ済むまい。

毎日のちょっとした罪が積もっていくと、その代価たるや、想像を絶するものとなるだろう。罪の代価は、残念ながら死である。そして罪の大小は関係ないだろう、人を殺すのも罪であれば、心の中で人を憎むことも罪である。顔ではにこやかに振舞っていたとしても、心の中に悪意を抱いていれば、すなわちそれも罪なのである。それが結果として形にあらわれようとあらわれまいと、罪であることに違いはないのだ。ゆるぎない善悪の基準を持たれる神の前にあっては、小さな罪も大きな罪も「罪」であることに違いはないのだ。

一日生きて、ひとつでも罪を犯せば、その代価は死である。自分は罪を犯すことはないと、自信を持って言い切ることのできる人は、果たしているのだろうか。私はどうかといえば、それこそ罪にまみれていると言っても言いすぎにはならないだろう。私が信仰を持っているとしても、私が罪人であることに変わりははない。一日外に出てみると、果たして何度罪を犯しているか数え切れないくらいである。たとえば、モーセの十戒を軸に考えてみると、「殺してはならない。」「あなたの隣人の家を欲しがってはならない。」まずどう考えても、この二つは守れていないだろうと思う。二つならまだマシかもしれない。もしかしたら、十ある戒めのうち、すべてにおいて破っているかもしれない。要するに私のような人間は一日生きれば、間違いなく死で償わねばならぬほどの罪を犯しているのである。もしかしたら、私のような悪人は少ないのかもしれないが、どんな人間であれ罪を犯したことがないと言えるものはいないだろう。

なるほど、この世に生まれてきた限り、人が逃れることのできないものが二つある。ひとつは「罪」であり、もうひとつは「死」である。そのようなことも考えると、何となく罪と死の関係が見えてくるような気がする。不死の人がいないように、無罪の人はいないのである。

人が一生のうちで犯してきた、また今後犯すかもしれないすべての罪の累積を贖うことは、人にはできないことである。人間、一度死んだらそれっきりである。罪を犯すごとに、死で贖うことは不可能だ。しかし幸いなことに、その代価を私たちが払う必要はないのである。それというのも、キリストが私たちの身代わりとなって、すでに支払いを済ませて下さったからである。

20万円の通信費が割り引かれたと、喜んでいる場合ではない。人生におけるすべての過ちが帳消しにされたのである。これを感謝せずに、何を感謝しようか。