小さなことでも

さてさて先週から風邪をひいてしまって、そろそろ一週間ほど経ってしまう。元気は元気なのだが、どうにも鼻水と咳が収まらない。熱があるわけでもなし、体が痛むわけでもなければ、だるいとも感じないのでさすがに会社を休んで、家でうだうだ寝て過ごすわけにもいかない。というわけで、鼻をすすりながら会社に行くのだけれども、鼻水が止まらなくてしょうがない。よもや花粉症ではあるまいな、と不安に感じることがないわけでもないが、春になるとくしゃみをして鼻が痒いと訴えている妻が平気そうにしているところを見ると、どうやら風邪の症状が抜け切らないだけのようだ。花粉症になると、これがずっと続くのであるなぁと思うと、ちょっと同情を禁じえなかった。

ところで鼻水が出るからには鼻をかまなきゃならない。風邪でもひかない限りは、鼻は丈夫(?)な方なので、普段は鼻をかむことがない。そんなもんだから、私の職場の机の上には安いティッシュしか置いてないのだ。事務所の中の売店で買った、事務用品の大手通販メーカーのティッシュである。一箱400枚200組入りで80円とかだったような気がする。家で使っている有名メーカーのティッシュは箱が一回り厚みがあるわりに、枚数は360枚180組と少ないのだから、いかに安いティッシュを使っているのかが分かる。

今週はずっと鼻をかみ続けたものだから、週の始まりには箱の上の方まであったティッシュが、金曜日にはほとんど空っぽになってしまった。ひとまずティッシュとしての役目をちゃんとはたしてくれてるからと、最初のうちは何も考えるところなく使っていたのだが、さすがに週も半ばまで使い続けると、どうも紙が薄っぺらで、しかも硬いのが気になるようになってきた。木曜になると、さすがに鼻をかんでいると、鼻の穴の周りがひりひりと痛くなってくる始末だ。もちろん鼻をかみすぎて、皮膚が荒れたのもあるだろうが、ごわごわした安ティッシュで鼻をかみ続けたことも原因だろう。そんなことを考えていると、やはり紙が厚くて肌触りがソフトなティッシュが欲しくなってしまう。安物買いの銭失いになる覚悟で、上等なティッシュを買おうかとも思ったのだが…いや、きっとその方が良いのだろうけれども、今使っているのが、もうちょっとで空になりそうなのを見ると、やはり使い続けようかと考えてしまうのである。もっとも、それまでには風邪も治っていそうな気がするのであるが。そうなるとまた、安いティッシュを買ってしまいそうだ。

そればかりか鼻が痛いのに追い討ちを掛けるかのように、近頃では唇まで荒れてきてしまった。それほど空気が乾いているのだろうか。ひと月前の方が、もっと乾燥していたような気がするのだが、それでも唇は荒れなかったのだけれども。

今更手遅れなのかもしれないが、ティッシュはちゃんとしたものを買っておけばよかったのだろうし、ちゃんとリップクリームを塗っておけばよかったのだろう。そうすれば、鼻も今ほど痛むことはなかっただろうし、唇も皮がむけることにならなかっただろう。後悔先に立たずだ。

わずかの小銭をけちったり、少しの手間を省いたことで、結局後になってから痛い目に遭うのは自分自身なのである。もちろんそんなことは、言われなくとも分かっていたはずであるが、実際それを意識して行動するかというと、案外そうではないものだ。何事もそうなのであろうか…。

もしそうであるとしたら、信仰生活でも同じことが言えるのではないだろうか。日頃の小さなこと、聖書を読んだり、祈ったりという日常における小さなことを怠ると、結局それは自分自身にとっての損失になるように思える。聖書を読むことも祈ることも、神にためにすることではなく、むしろそれは人のため、何より自分自身のためにすることなのではないのか。私たちが聖書を読まなかったからといって、神が困ることはないだろう。しかし、困るのは自分である。神を知る機会を逃しているのだから。私たちが祈らなかったからといって、神が心細く思うことはないだろう。しかし、心細くなるのは自分たちである。神と語る機会を逃しているのだから。小さなことに見えるが、実は大きなことなのである。