善悪の知識の木

何が良くて、何が悪いのか。聖書には、義人はいないと書いてあるが、今の世の中を見ていると、法を犯してさえいなければ、何をしようともお構いなし、というような風潮がある。確かに法を犯していなければ、法で裁かれることもない。法で裁かれることもなければ、罪に定められることもない。そのような考えが、世間の常識になりつつあるように思えてならない。理詰めで考えていくと、必ずしもそれは間違っているわけでもないし、むしろそれが理にかなっていると言えるだろう。しかし理にかなっているからというだけで、納得できる人は少ないだろうとも思う。

大きな事であれ、小さな事であれ、傍から見ていて、何か間違っているのではないかと思うことがある。たとえば、電車の座席を詰めて座らないとか、電車の中で化粧をするとか、そういった毎日目にするような些細なこともあれば、親から億単位の小遣いをもらっておきながら気が付きもしなければ、税金も払っていなかったという、まずまず普通に生活をしていれば滅多に見聞きすることのないことまで、あれこれと疑問に思うことがあるのだ。はたして私が他人のことばかり気にしてしまうからなのかというと、そうでもないだろう。私と同じように思ったり、考えたりする人は他にもいるだろう。それは、おそらく私たちのうちに良心とかモラルとか常識という、法律ではない、物事の良し悪しの判断基準があるからだろう。昔の人の言い方を借りるとすれば「お天道様が見ている」と言ったような、やってよいことと、やってはならないことの基準があるからなのだろう。

「お天道様が見てる」という言い方で表現される物事の良し悪しについては、六法全書に書かれているようなことでもなければ、世の中に数多とある明文化された決まりごとにも書かれていないかもしれない。もしそのようなことが書かれているとしたら、せいぜい幼稚園の「おやくそく」のようなところだろう。もしかしたら、そこにすら見出せないかもしれない。

人の嫌がることをしてはいけない、人を困らせてはいけない、人に嘘をついてはいけない……等々、あまりにも当然といえば当然のこと過ぎるので、文章にすらならない。しかし文章にこそなっていないが、私たちの心にはしっかりと刻まれているではないか。これがおそらく「良心」であり「モラル」であり「常識」なのだろう。もちろんこの世に住む人々が百人十色であるように、全員の心に同じことが刻まれているというわけではない。人によっては多くの「モラル」があるだろうし、またそのような人から見たら、別の人の「モラル」は低く見えてしまうこともあるだろう。

それではこの「モラル」はどこからやってくるのだろうか。おそらく幼い頃、それこそ物心が付きはじめた頃に教えられたことが、そのまま心に残っているということなのかもしれない。確かにそれもあるだろう。しかしそうやって考えていくと、誰が最初に、いわゆる「常識」なるものを考え付いたのかと疑問に思えてしまうのである。私の「良心」というのは多分に私の両親に因るところが多いかもしれない。しかしそれを遡って行くと、一体どこにたどり着くのだろうか。

聖書にその答えを見出そうとするならば、まずは創世記を読めばよいだろう。神がエデンの園に人を住まわせた時、たったひとつだけ、善悪の知識の木から実を取って食べてはならないとの決まりを設けられた。ところが蛇にたぶらかされて、人はその木の実を食べてしまったのだ。その瞬間から良くも悪くも人の「良心」が始まったのである。まず人が気付いたことは、自らが裸であることと、それが相応しくないということだった。その実を食べる前、人に「良心」がなかったかどうかと言うと―これは私の考えであるが―おそらくなかったに違いない。なぜなら人はまだ善と悪を知らなかったからだ。何が悪いかを知らずに、何が良いかを知ることはできまい。

さてエデンの園から何千年もの時が経った今でも、私たちの内には善と悪を区別する知識は残っているのだ。確かに私たちは義人ではないが、人として心に刻まれた「良心」と信仰によって得られる「良心」を用いて、神の前に正しくありたいものである。