鍵と錠前

先日の夜のことである。帰宅途中、自宅マンションの手前の階段を登りきったところで、道の脇に何かが落ちているのを見つけた。拾ってみると鍵だった。普通の家の鍵や車の鍵と比べてみると、一回りほど小さな鍵がふたつである。何の鍵だろうかと思いつつ、近くにあった階段の手摺の上にのせておいた。落とし主が気付いて探しに来たら見つけるかもしれないが、運が悪ければ、悪意ある第三者がそれを持ち去ってしまう可能性も否定はできない。しかしよくよく考えてみれば、鍵だけ盗んでもあまり意味はないだろう。

もちろん鍵を失くさないのが一番なのであるが、不幸にも失くしてしまったら、一大事と思うことだろう。たとえば家に帰ってきてドアを開けようとしたら鍵がない!家に入ることができないのは、当然困るのであるが、それよりも鍵を失くしたことを不安に思うだろう。誰かが拾って、万が一にも家に入り込まれたらどうしようと考えるだろう。玄関前でおろおろしていても仕方がないので、普通ならば自分が通ってきた道を逆に戻りながら、思いつくところを注意深く見ながら鍵を探すに違いない。途中でコンビニに寄ったりでもしたら店員さんに聞くかもしれない。探している途中で、鍵を見つけることができれば問題解決なのであるが、それでも見つからなかった、焦ってしまうことだろう。家に入れないのは、誰かに連絡をすれば解決するかもしれないが、他人が鍵を手にしてしまってはどうすることもできない。悪用されたらどうしようかと心配になるだろう。

とは言っても、鍵というのは、それだけではどうしようも使い道のないものである。鍵は錠前を開けるためのものである。鍵と錠前を合わせることによって、何かをするのである。肝心の錠前がなければ、ペーパーナイフくらいにしか使えない。私が見つけた鍵も、はっきり言って何の鍵なのか、私には分からなかった。小さいところを見ると、普通の玄関の鍵でもなければ、車の鍵でもなさそうだ。鍵の専門家ではない私にとっては、どれだけ考えたところで、その程度の目星しかつけられないのである。これでは鍵をこっそりと頂いたとしても何の特にもならない。せいぜい後から探しにくる持ち主を困らせるくらいである。それを考えると、家の鍵を失くしたところで、さほど心配する必要もないのかもしれない。家が数千戸ある町の中で鍵をひとつ失くしたところで、その鍵に合う玄関を探すだけの根気のある泥棒がいるとも思えない。それだけ辛抱強い人間は、まず盗んで金品を得ようなどとは考えないだろう。鍵があったとして、肝心の錠がなければ意味がないのだ。

ところでもし仮に、キリストに対する信仰を鍵にたとえるならば、信仰という鍵で開くことのできる錠前がなければ、キリストを信じることに意味はないだろう。であれば錠前とは何であろうか。信仰によって開くことのできる扉とは、まさしく天の御国への入り口ではないだろうか。

今日は復活祭である。今から二千年前にイエス・キリストが私たちの身代わりとなって十字架で死なれ埋葬されたのだが、三日後によみがえられたことを憶えて感謝する日である。キリストはよみがえることによって、私たちが神の御国へ行くことができるようにしてくださったのだ。誰でも信仰という「鍵」を持ってさえいれば、キリストによる罪の赦しという「扉」を開けて、神の御国へと入ることができるのだ。幸いにもその鍵はこの世にひとつだけあるものではない。信じる人の数だけ用意されているのである。誰でもその鍵を手にすることができるのだ。手を伸ばして、それを手にするだけでいいのだ。

さて私が拾った鍵であるが、次の夜の帰り道、どうなったかと思いながら手摺の上をちらっと見たら、鍵はそこにはなかった。果たして私が鍵を拾った後に、持ち主が探しに来て見つけて持って帰ったのか、はたまたその日は風が強かったこともあって、風に飛ばされてしまったのか……どちらなのかは分からない。持ち主の手に戻ったのであれば、鍵は本来の役目を果たすことができ、めでたしめでたし、一件落着である。

私たちも神の御国への鍵を失くすことなく肌身離さず持っていたいものである。