用という字

駄文ばかり書いている私が言うのもおこがましいが、日本語は素晴らしいと思う。もちろん日本語だけが他と比べて優れているわけでもないのだろうが、日本人として日本語は誇って良いものだろう。もちろん私の知る限りでは、英語もストレートに意思表示をし易いという日本語にはない良さはある。しかし日本語には「ひらがな」「カタカナ」「漢字」と言葉を表すために様々な表現方法があるではないか。そしてそれらを組み合わせることで、思っていること考えていることなどを表現するのである。ひとつのことを表現するだけでも、言葉を選ぶのはもちろんのこと、目に見えるように書く場合には、どんな字を組み合わせて書けばいいのか考えなければならない。難しいと言えば、難しいことだ。しかし面白いと言えば、面白いともいえる。

それというのも書き方ひとつで、読み手に与える印象が変わっていくからだ。例えば先週ニュースで聞いた言葉のひとつに「たちあがれ日本」というものがある。この言葉を最初に考えた人は「たちあがれ日本」というように、ひらがなと漢字を組み合わせることで、人々が受け入れやすい印象を与えようと期待したのかもしれない。もしこれを「たちあがれニッポン」としたらどうなるだろうか?なにやらスポーツの応援みたいだ。それでは「立ち上がれにっぽん」だったら?何だかスッポンが立ち上がって二足歩行をしそうな場面を想像してしまい、笑いを誘うというか、なんとも間の抜けた印象を受けてしまう。

ところで先日のことであるが、本を読んでいたら「利用」と「悪用」という言葉を見つけた。普段から何かと使う言葉なので、なんら珍しいこともないのだが、同じ「用」という漢字を使っていながら、先頭にどのような漢字が来るかによって、まるで反対のことを意味するというのは、なんともいえぬ言葉の奥深さを感じてしまった。「有用」や「無用」にしても同じことである。ぱっと思いつくのはこれくらいであるが、あちこち探してみると、他にも似たような言葉を見つけることができるだろう。

「用」という漢字は、訓読みすれば「もちいる」と読めるように、その意味するところは、何かを使って目的のために役立てるということである。先頭に「利」を付ければ、利益を得るために何かを用いることになるだろう。一方「悪」を付ければ、悪事を行うために何かを用いるという意味になる。さらに面白いことに、同じ物に対して、これらの言葉を使うことができるのだ。例えば「コンピューターを利用する」という文章と「コンピューターを悪用する」という文章があるとする。見る限り一文字違うだけだが、意味は完全に反対である。読み手、聞き手にすれば、前者からは建設的な印象を受けるが、後者からは退廃的な印象しか受けない。それぞれの文章において、最終的な意味を決定するのは「利」という字と「悪」という字なのである。たった一つの文字が、文章全体に影響を与えるとは……これが言葉の不思議というものであろうか。

さて「用」という字に限って言えば、それ自体に良い意味も悪い意味も持ち得ないのである。何のために用いるのかを表すための一文字が付いてはじめて、その意味が決定されるのである。

思えば人の性質も、それ自体では善悪の意味を持たぬ字の性質に似ているものがあるのではないだろうか。いや、聖書に従うのであれば、人は生まれながらにして罪びとであるから、善悪のいずれの性質を持たぬというのはちょっと間違っているだろうが、それを加味して考えてみよう。人は自らどのように生きるかによって、世の中に善をもたらす存在にもなり得るし、その反対に悪をもたらす存在にもなり得るのだ。人には自らの生き様を決めることができる。それは信仰者であっても変わらないことだ。信仰を持ったからといって、体が勝手に動いて良い行いをするわけではない。信仰者であるからこそ、自分で考えて行動しなければならないのだ。

「私たちは、やみのわざを打ち捨てて、光の武具を着けようではありませんか。……昼間らしい、正しい生き方をしようではありませんか。」(ローマ人への手紙13書12~13節)