聖書は難しい

しばらく前のことだが、妻が聖書を読んでいたら、聖書は難しいと言っていた。まるで使徒の働きに出てくる、エチオピアの宦官みたいなことを言っているな、と思って聞いていたのだが、どうやら聖書に書かれている内容のことではなく、ひとつの文章が長いから分かりにくいということだったらしい。英語で読んだら分かりやすいかどうかと聞かれたので、あまり違いはないのではないかと返事をしたのだが、後で妻が長いといった箇所を英語で読んでみたら、やはりひとつの文章は長かった。妻の日本語の読解力が不足しているわけじゃないらしい。妻曰く、もっと分かりやすく書けばいいのにということらしいが、しかしあまりにも分かりやすくしてしまうと、それはもはや聖書ではなくなってしまうのじゃないかと思った。何かを分かりやすく説明するのであれば、それを理解するのを手助けするために、編集者なり翻訳者なりの個人的な解釈が入り込んでしまうだろうし、そうなると本来の意味が失われしまう可能性もある。本来の一文が長いのであったとしても、そのまま受け入れるべきではないだろうかと思ったのだ。

さてそれから何日かして私が聖書を読んでいたら、今度は私が読んでいて難しいと思う箇所に遭遇してしまった。私の日本語の理解力が低いせいだろうかと、自身の読解力を疑いたくなってしまった。件の箇所は、ローマ人への手紙の最後の最後である。

「私の福音とイエス・キリストの宣教によって、すなわち、世々にわたって長い間隠されていたが、今や現わされて、永遠の神の命令に従い、預言者たちの書によって、信仰の従順に導くためにあらゆる国の人々に知らされた奥義の啓示によって、あなたがたを堅く立たせることができる方、知恵に富む唯一の神に、イエス・キリストによって、御栄えがとこしえまでありますように。アーメン。」

今まで何度も読んできたのに、この箇所が何を言っているのかと、真剣に考えたのは今回が初めてかもしれない。ということは、今まではこれといって何も考えることなく、ただ字面を追っていただけなのか……だとしたら聖書を読んだということにはならないだろうが、人間、読んでいるものをすべて理解しているかどうかというと、案外そうでもないのかもしれない。さて言い訳はそれまでにして、日本語ではあまり言いたいことが伝わってこないので、英語で読んでみたら、書いてあることがすんなりと頭に入ってくるのだから妙なものだ。しかし本当にこの箇所を正しく読み、理解したいのであれば、やはり原語で読むのが一番最適なのかもしれないが、いかんせんギリシア語なんて忘れてしまったので、そうすることもできまい。というわけで、英語と日本語を読み比べてみることで、内容を把握するしかない。

簡単で申し訳ないが、英語の聖書で書かれいてるところから、一番重要であろうと思われているところを挙げるとすれば、”to the only wise God be glory forever through Jesus Christ!”という箇所だろう。和訳の「知恵に富む唯一の神に、イエス・キリストによって、御栄えがとこしえまでありますように」という箇所に相当する。英語で読むと明らかになってくるのだが、前述の25、26節は「神」を叙述している。

ということは、この二節を読むことで、神がどのようなお方であるかを知ることができるのだ。それに気が付くと、普段見慣れた場所に宝を見つけたような、何やら得したような気分になる。

ということで、ここはひとつ私なりに考えてみた。まず神は、人々を堅く立たせることができる存在であるということだ。その理由についても書かれている、すなわち、国々の人々を信仰に導くための隠された秘密が、預言者たちの書によって明らかになったからだ。もちろん、それが明らかにされたのは、神の御心にかなってのことであるが、実際の行動で現したのが、イエス・キリストの宣教であり、使徒たちの福音伝道なのである。

まじめに読むと、確かに聖書は難しいところがある。しかしそれを考えることで、人は神についてさらに知ることができるのだろう。聖書が簡単なものであったら、人は深く考えることもなく、大事なことを見落としてしまうことがあるかもしれない。そう考えると、聖書が難しいのも、人のためなのであろう。