シャツがたくさん

今年も衣替えの季節がやってきた。やってくる、ではない。やってきた、である。暑がりの私にとっては、世間よりもひと月ほど早く衣替えの季節がやってくるのだ。ついでに言っておくと、秋にはひと月遅くなるのである。つまり普通の人より、ふた月ほど薄着で過ごしている時期が長いのである。さてそんな私の衣替えは実に簡単である。それというのも、だいたい着るものが決まっているからだ。寒い季節の定番は、長袖シャツにベスト、暑い季節の定番は、半袖シャツに短パン、である。つまり、クローゼットの中の長袖のあった場所に半袖を、ベストのあった場所に短パンを入れ替えるだけなのである。それだけ聞くと、すぐに終わってしまいそうに思われるかもしれないが、結構手間が掛かるのだ。何と言っても、シャツの枚数が多い。長袖半袖それぞれ十数枚ほどあるからだ。もっとも衣替えと大そうなことを言っても、半袖を衣装箱から出してハンガーに吊るして、ハンガーからはずした長袖を畳んで衣装箱にしまうだけのことなのであるが、このシャツを畳むというのが一番曲者なのだ。洗濯するのは一向に構わない、いやむしろ洗濯と洗濯干しは好きなのであるが、洗濯を畳むのはキライである。せいぜいやっても、タオルのように直線だけで成り立っているものくらいだ。シャツのように複雑な形をしているものを畳むのが苦手な私にとっては、衣替えのこの部分が何よりもの労働なのである。

それにしても毎年衣替えをする度に感じるのだが、ずいぶんと沢山シャツを持っているものだと我ながら関心してしまう。考えてみるに、ただ数が多いだけでなく、物持ちが良いからどんどん増えてしまうのだ。一番古いものでは、私が19歳の時に買ったシャツが、今でも現役で活躍しているくらいだ。私が37歳であることを考えると、このシャツは18歳ということになる。私と半生を共にしてきたと言っても過言ではないだろう。おかげで毎日違うシャツを着ても最低でも二週間は同じシャツを着ないで済んでしまう。

しかし不思議なもので、全部を万遍なく着ているかと言うと、案外そうでもない。どうしても偏ってしまうのである。このシャツは週に一度は着ているかと思えば、あのシャツは月に一度、思い出した時にしか着ないとか、どうもシャツにとっては公平ではない。もちろん気に入りのシャツがあるわけでもなければ、こだわって着ているわけでもない。なんとなく朝着替えている時に、その時の気分で決めているだけなのであるが。もしかしたら、無意識のうちに選んでいるのかもしれない。

それはそうと、聖書は全部で66巻の文書がひとつにまとめられてものである。聖書を読むまでは、私も聖書というのはひとつの本であると思っていたくらいだが、実は小さな手紙やら記録やら詩歌やら預言やらがまとめられたものである。ひとつひとつは文書としてそれ自身で完結しているために、どれを読もうとも構わないのだろうが、もちろんどの順番で読んだら分かり易いとかというものはある。聖書を開いてみると分かるのであるが、英語でも日本語でも、一番最初は創世記であるし、一番最後は黙示録であることに違いはない。そしてもちろん前半は旧約で、後半は新約である。

聖書を最初から最後まで通読することが、それこそ満遍なく神のことばに接することができるので、理想にかなったことなのだろう。とは言っても、66巻ある中でも、何度となく繰り返して読む書もあれば、聖書を読むようになってから今日に至るまでに一度か二度くらいしか読んだことのない書もあるというのが実際だ。省みれば読み易いということで新約ばかりを読んでいるようだし、レビ記だの民数記などは、読むにしても途中を端折ってしまうことの方が多いようだ。偏った読み方をしているものだと認めざるを得ない。

シャツは偏ったとしても、どうってことないだろうが、聖書が偏ってしまうというのは、良い悪いという問題ではなく、読み手にとっては大きな損失なるのだろう。何と言っても聖書は神のことばである。聖書をかいつまんで読んでいるとしたら、それは神のことばの一部分にしか触れていないことになる。天地を創造されたほどの神が聖書を通して明かしているものがあるのなら、それは人にとって何にも代え難い知恵となり財産となるだろう。