目から鱗、豚に真珠

どちらも日常的に使うことがある言葉であるが、どちらもその語源は聖書にある。今さらこれらの言葉の意味について説明するまでもないだろうが、聖書のどこで使われているかを簡単に述べると、「目から鱗」は使徒の働き、「豚に真珠」はマタイの福音にそれぞれ由来している。

まずは「目から鱗」であるが、これは使徒パウロ、いや、もっと正しく言うのであれば、使徒になる前、キリストに従う人々を迫害していた青年パウロが、ダマスコという土地の信徒たちを捕らえようと出掛けた時に、キリストと出会い、視力を奪われてしまった後に、心を入れ替えキリストのことばに従って、アナニヤという名の信徒の家に行き、彼に祈ってもらった時、パウロの目から鱗のようなものが取れて、再び彼が視力を取り戻したということに由来する。

また「豚に真珠」であるが、これは「山上の垂訓」と呼ばれている箇所、すなわち信仰者の心得についてキリストが弟子たちに教えている中で登場する。山上の垂訓については、それなりの文字数が費やされており、全体を見ることはできないので、ここでは件の「豚に真珠」の箇所だけを見ようと思う。キリストが弟子たちに、人を裁いてはならないことおよびその理由について説明している箇所で出てくる。キリストによると、私たちが人を量る基準というもので、私たち自身も他人から量られていので、人を量るものではないということだ。続けてこのようにも言っている。人のことをあれこれ指摘する前に、自分自身を見直しなさいと。そしてその後に、「聖なるものを犬に与えてはいけません。また豚の前に、真珠を投げてはなりません」とキリストは言っているのだ。ちょっと読んだだけでは、直前の部分とどのような関連があるのか、なかなか分からない。では、しっかりと読んだら分かるのかと言うと、やっぱり分からない。シャワーを浴びながらしばらく考えてみたけど、やはり気付くところは何もなかった。もしかしたら関係があると考えてしまうのは、むしろ考えすぎなのかもしれない。それでは、この後はどのように続いているだろうか。「それを足で踏みにじり、向き直ってあなたがたを引き裂くでしょうから。」

つまりこういうことだろうか……良いものを、その価値を理解しない者に与えても、それを蔑ろにするだけではなく、与えた者に対して感謝をするどころか、怒りを向けられてしまう。ということは、私たちは良いものを、価値の分からぬ人に与えてはならないということだろうか。それでは良いものとは何であろうか。しかし良いものを人に与えてならないというのは、どうも、同じ山の上で「自分の敵を愛し、迫害する者のために祈りなさい」と教えているキリストの理念というか理想とは相容れないような気がしてならない。

もちろん単純に「豚に真珠」と言ってしまうと、普段から使っている言葉でもあるし、日常における用法であれば「価値の分からぬ人に良いものを与えても無駄」という意味でも十分に通用するであろう。ところがその由来を見ていくと、本来は別のことを表すために使われているのかもしれないとも思えてくる。

さて「豚に真珠」ということでキリストは何を伝えようとしていたのだろうか。もしかしたら、自分自身を中心に据えて考えてしまうから分からなくなってしまうのではないだろうか。この後に続く箇所にはこのように書かれている。求めれば与えられる、探せば見つけられる、叩けば扉は開かれる。さらに、神は求めるものには良いものを下さると、イエスは教えているのだ。

これは私流の解釈になってしまうが、人の求めるものに応じて、神はその人に相応しいもの、その人にとって理解できるものだけを与えるということだろう。つまり、そのありがたみや重要さを見出すことができない者には、たとえそれが良いものであっても与えないということなのかもしれない。しかし悲観することはないだろう。もしそうであるのなら、神のことをより深く知ることで、人はより多くのものを発見し、手に入れることができるのではないだろうか。神に近づけば、より多く恵まれるということだろう。