幸いです

前回、山上の垂訓から少しばかり書いてみたわけだが、これもちょうどよい機会だと思うので、せっかくだからもう少し詳しく見ていくのも良いだろうと考えてみた。ということで、山上の垂訓を最初から読んでみようかと思う。

キリストが山の上で人々に伝えたことばは、マタイの福音五章三節から記されている。最初のことばはこうだ。「心の貧しい者は幸いです。天の御国はその人のものだからです。」

ちょっと読み進めていくと気付くだろうが、「幸いです」ということばがこの後も続いて出てくるのである。12節まで、合わせて九回も繰り返し登場しているのである。ということは、幸いになるための方法というのが、ここを土台にして考えるのであれば、九通りもあるのだ。しかし漠然と「幸いです」と言われても何がなにやらさっぱり分からないかもしれない。もしかしたら、勝手に自身の都合に合わせて、幸いとはかくかくしかじかなものであると、自分中心で考えてしまうかもしれない。そうならないために、ここでは「幸い」とは何であるかも併せて説明されている。

ここにかかれている九通りの幸せになる方法のうちで、まず最初に書かれていることは、先にも聖書から写した通りに、心の貧しい者になることだろう。普通に考えると、これはなかなか理解できないことであろう。衣食住や金銭的なものを含めて物質面において貧しいことでさえ、人にとっては相当な苦痛である。どう考えてみても、幸いとはほど遠い。むしろ不幸とさえ言える。目に見えるところでさえそんな具合なのだから、いったいどうしたら、目に見えない精神面において貧しい者が幸いだなどと言えるのだろうか。気持ちさえ貧しくなければ、たとえぎりぎりの生活をしていたとしても、幸いである、というのであれば素直に受け入れられそうなものであるが……。

そもそも心の貧しい者とは、どのような状態にある者を意味しているのだろうか。逆に言うと、心が豊かな者とはどのような人であろうか。心が豊か、心が充足しているということは、とりもなおさず悩みや不安を抱いておらず、将来に渡っての計画を思い描いている人のことではなかろうか。なるほど、そうやって考えてみると、心が貧しいとは、どのようなものかと見えてくるようだ。あれやこれやと思い悩み、将来への期待を持つことができずに、ただただ心配と不安と絶望に囚われている心の状態にある人のことを示しているのだろう。

それではなぜ、心の貧しい者は幸いなのであろうか。キリストによると、天の御国はその人、すなわち心の貧しい人のものだからだと言う。天国と言ってしまうと、人が死後に行くところと連想してしまいがちであるが、それだけでは十分に説明しきれないだろう。天の御国とは、神が統治する現実を示すのではないだろうか。現実とは、実際の場所であり、時間である。神が人と関わってくださるという現実が、天の御国なのではないかと私は思うのだ。

心が貧しければ、神がおられる現実を感じることができるということなのだろうか。神の力を感じやすいのは、人が満たされているときではなく、むしろその反対で、心に大きな穴が開いているかのような時なのであろう。それというのも、神は人の心に隙間を見いだしたら、それを塞いで下さることのできるお方だからだ。人の心に巣くう不安や悲しみを取り除くことのできるお方なのである。では、そうなるためにも人は心を貧しくさせなければいけないのだろうかというと、それもちょっと違う。心が満たされていることは悪いことではないからだ。しかし本当に完全なまでに悩みも不安もないという人は果たしているだろうか。どれほど満足に感じていても、どこかにわずかな心配事があるものだろう。そのような些細なことさえも、神にゆだねることで、人は現実の神と関わり合うことができるのではないか。それが人にとって幸いなことであると、キリストは伝えているように私は思うのだ。

さてさて残りの八通りの「幸い」になる方法は、また別の機会に考えるとしよう。