幸いです、柔和な人

ようやく三度目にして、少々ポジティブなことばが出てきたようである。

幸いな人とは、何者か。マタイの福音5章5節にはこう書いてある。「柔和な者は幸いです。」なるほど、心の貧しい者だの、悲しむ者だのと聞いてしまうと、何やら打ちのめされているようで、とてもじゃないけど普通に考えたら幸いとはほど遠いような人を主体に書かれていたが、柔和な者というと、性格温厚にして物あたりのやわらかで、怒るのに遅く忍耐力のある、いわゆる「良い人」を連想させる。そのような人は確かに得することが多いのではないかという印象を受ける。そう考えると、柔和な人が幸せであるというのは、納得できる。

それでは柔和な人にとって、幸いとはどのようなものなのだろうか。漠然と、人柄が良いと得である、などと言っても、いまひとつ説得力に欠けてしまうようだし、人によって解釈のしかたは数多あることだろう。人というのは、何事も自分にとって都合の良いようにと考えてしまいがちであるから、幸いの基準というのも十人十色だろう。私なんかは非常に俗っぽい人間であるから、何が幸いかと聞かれたら、それはもちろん経済的に困ることが何一つないことに決まってるじゃないかと答えてしまうだろう。それこそ振ればお金がじゃんじゃん出てくる小槌を持っているような状態が、私自身を基準にして考えるところの幸いである。もちろん広い世の中には、高尚な考えを持っている人々もおられるだろうし、そのような人々はおそらく世界の平和や、地球環境の保護などを思い浮かべるかもしれない。とてもじゃないが、私には遠く及ばない考えである。おそらくそのようなことを思う人々は、私のように煩悩に惑わされることもないのだろう。なるほど、それはそれで満足なことかもしれない。しかしながら、そのいずれもキリストが伝えるところの「幸い」ではない。良い人は得である、というのと、柔和な人は幸いである、というのは雰囲気では相通じるものがあるのかもしれないが。

それでは、柔和な人はどのように幸いなのであろうか。キリストは何と言っているのだろうか。「その人(柔和な者)は地を相続するからです。」

へぇー、地を相続するということは、地主にでもなれるということか。なるほど、それだったら大いに得する話である。しかしこれはどうも不動産を手に入れるということとは違うような気がしてならない。何より、キリストもキリストの弟子たちも定まった住処というものを持っていなかったではないか。彼らは常に旅の途上にあったのだ。なぜなら様々な地を巡っては、病気の人を癒したり、聖書のことばを教えたりして過ごしていたからだ。そればかりかマタイの福音の最後では、あらゆる国の人々を教えるようにと、命じておられるではないか。それを考えると、地を相続するというのは、別の意味を持っているに違いない。少なくとも、この世で土地を得るというのは違うだろうと、私は思うのだ。

もちろんキリストが本当はどのような思いを込めて言ったのかは、私には分からない。だからこれから書くことは、私の考えであり、私の解釈でしかない。相続するということは、財産やら権利やらを譲り受けるということで、おそらく他に解釈のしようはないだろうが、問題は「地」である。これは一体どこを表しているのだろうか。この箇所の直近で、場所について述べられているのは2節ほど遡ったところにある「天の御国」ではなかろうか。天の御国が何であるかは、以前も述べた通りである。ということは、ここでキリストが教えようとしていることは、心穏やかな人は、神が共にいてくださる現実において、神に属するすべての財産と権利を受けることができるようになる、ということではないだろうか。

心が平安で満たされ、他の人や物事に悪意敵意を抱かず、物あたりがやわらかであれば、すべてのものを得たも同然になるのであろう。日々の生活において、心を乱されることが多々あるかもしれない。しかしそこで動じることなく、むしろ大らかに構えていることができれば、不安にならずとも焦らずとも、この世界で一番の富である、神の国とそこにあるすべてを受け継ぐことができるのだ。